西南戦争見越し米相場で大当たり 波乱万丈の「湯島将軍」 石崎政蔵(上)
西南戦争や明治期の米価高騰を見越した米の大相場で名を成した石崎政蔵は、邸宅のあった場所から「湯島将軍」の称号を得ました。不遇の青年時代を経て成功をつかんだ後も、浮き沈みの大きい人生でしたが、内助の功やいくつかの幸運もあり、後に足利銀行につながる小山銀行を故郷に設立、実業家としても足跡を残しました。 米相場に出合った後、トントン拍子に巨富を得ていく石崎の前半生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。 3回連載「投資家の美学」石崎政蔵編の第1回です。
辛酸をなめた上京前の青年時代
相場師は名声が広がっていくと、「将軍」と呼ばれるのが常であった。米の相場で巨富を築いた石崎政蔵は、邸宅が東京・湯島にあったから「湯島将軍」と呼ばれた。 明治35(1902)年は、石崎にとって記念すべき年となった。この年、大手出版元から石崎を称える2冊の本が同時発売されたからだ。1つは「明治富豪致富時代」(墨堤隠士著)、もう一冊が「明治豪商の夫人」(岩崎徂堂著)。 前著は石崎を「相場界の傑物」と持ち上げ、後者は岩崎弥之助(三菱2代目社長)夫人早苗、益田孝(三井物産初代社長)夫人栄子、渋沢栄一夫人兼子、安田善次郎(安田閥開祖)夫人房子ら、錚々たる大物経済人の夫人に伍して、政蔵を支え続けた鶴子が冒頭を飾るという快挙に、将軍も思わず快哉を叫んだに違いない。 慶応3(1867)年に上京する前、政蔵は水戸で辛酸をなめた。 「殺気天をおおい、妖気地に満ち、ついに常野(常陸と下野)間戦爭の端を開けり。君すなわち、事態を察し、農の商にしかざるを悟り、父兄に辞して家を出て、まず常陸におもむく。時に年18、これより諸商に仕え、商務を実習すること17、8カ月。その間、あるいは酒屋の蔵番となり、あるいは漁夫の飯たきとなり、あるいはイワシ売りとなりたり」(瀬川光行編「商海英傑伝」) しかし、政蔵の心は弾まなかった。最後に、ある材木商に奉公した時、主人が政蔵の商才を認めて重要な仕事を任せてくれたのが発奮剤となる。 「主人曰く君を愛し、君もまたもって立脚の地をなさんことを期す」(「明治人名辞典」)が、最愛の母の病気で小山に呼び戻される。孝養の甲斐なく明治元年、母は死去。「父母死して3年墓前を去らざるは孝行の道なり」といわれた時代であったが、百箇日法要を終えるや、東京に向かう。これという当てがあっての上京ではない。商売で身を立てたいとの一途の思いから、徒手空拳で商いの世界に身を投ずることとなる。財布の中は一銭もない。わずかに衣服を質入れして資金をひねり出し、古道具を仕入れて路上に並べる一方、商店間のブローカーをやったりするが、商売の道の厳しさを知らされるだけであった。