『東京人』『アステイオン』『外交フォーラム』...3誌を生んだ「時代の機運」と共通点
<バブル経済時には日本の国際的なプレゼンスが高まり、それに見合う国際貢献が求められていた。それと同時に海外に発信していく機運も盛り上がっていた>【高橋栄一(都市出版『東京人』編集長)】
ある座談会後の酒宴「直会(なおらい)」が終わった後、山崎正和さんから言われた一言が、20年を過ぎた今でも繰り返し聞こえてくる。 【写真特集】東京に集う単身者という「細胞」たち 『東京人』は「を」と「で」を意識したらいい――。 つまり歴史や文化や芸術、建築、都市の整備、教育などを通して、東京「を」考える。東京「を」表現し伝える。 東京には地方出身者、外国人、政治家、役人、職人、有識者、芸術家、科学者、LGBTの人もいれば、海外で活躍する日本人も多くいる。 また、ときに争いも含めて、あらゆる人々の交流や相互作用を東京『で』なら体験でき、声を引き出し、批評し、考えたりもできる。人が集まるのが東京である。つまり、「で」というのは、東京という「場」の優位性を大切にということだ。 私が編集長を務める月刊誌『東京人』も『アステイオン』と同じ1986年に創刊された。そして、もう1つ発行人を務める隔月刊誌『外交』(旧『外交フォーラム』の後継誌)は1987年と、こちらもほぼ同じ時期に創刊されている。 この3誌に通底するものの1つは創刊時期が近いこと。2つ目に、バブル経済の恩恵を受けて、サントリー、東京都、外務省という良き後援者に恵まれたこと。そして第3に、いずれも創刊編集長が粕谷一希という点である。そのため編集委員や執筆陣の多くが重複している。 『アステイオン』の創刊号から「大正幻影」を連載し、同作でサントリー学芸賞を受賞。『東京人』で、その続編ともいうべき「荷風と東京」を連載して読売文学賞を受賞した川本三郎さんはその代表と言える。 当時はバブル経済にあり、日本の国際的なプレゼンスが高まっており、それに見合う国際貢献に加えて、言論と英知を国の内外で磨きあげる場を提供し、あわせて海外にも発信していこうという機運が盛り上がっていた。 日本は国際社会の単なる財布に終わってはならないとの目標が共通してあり、『外交フォーラム』は年に数回英文版を出版した。 また、『アステイオン』もダニエル・ベルさん、ハーバート・パッシンさん、そしてヴォルフ・レベニースさんという世界的な知性を編集委員に迎え、海外の一流の執筆陣からの寄稿が寄せられていた。そして、『アステイオン』の姉妹誌であった英文誌『コレスポンデンス』の功績も実に大きなものであった。 ■サロンと座談会 ギリシャ語で「都市らしさ」という意味を持つ『アステイオン』と、文字通りの『東京人』。人が集まる場所が都市であり、そして会話を気持ちよく、実りあるものにするための技術やマナーを「都市らしい」振る舞いと呼ぶのであろう。 まさに都市とは文化や芸術、英知を生むためのインキュベータのことであり、もっと言えば、普通の都市生活者にとっても楽しい「耳学問」の場でもあると思う。 また、競技場や劇場を意味するアリーナと集会所や広場を意味する『フォーラム』は、場所や空間を提供する目的を表す言葉である。山崎さんが強調したのは、社交や交流、サロンといった「場」の提供であった。その集う場がアリーナであり、フォーラムなのであろう。 そのサロンに罵声や怒鳴り声は相応しくない。より高度な知恵はさまざまな考えや、専門の違う人々――すなわち多様な人々が集い、意見を交換することから生まれる。 中央公論の嶋中鵬二社長の「中央公論サロン」における粕谷一希、高坂正堯、山崎正和、永井陽之助、塩野七生の各氏の縁はよく知られているが、そのサロン的企画の代表が雑誌で言えば座談会である。 結論に向かって丁々発止やりあうものの、予定調和的に収まる座談会も面白いし、話が予想外のところにいってしまい、編集者の困った顔が見えるような座談会も味がある。それぞれ専門を持つ知的な人々の座談会が暴走を始めるのは、たとえ尻切れトンボに終わったとしても貴重な記録になる。 『東京人』では長く、丸谷才一氏をコアとする鼎談「東京ジャーナリズム大合評」という座談会を連載したが、丸谷さんと並ぶ座談の名手である山崎正和さんにも幾度か参加いただいた。 丸谷さんの座談会はまさに丸谷作・演出のドラマのようであり、話の展開は丸谷氏の緻密な脚本に則って行われることが多かった。 丸谷・山崎対談は質・量ともに豊富であるだけでなく、お互いがお互いの脚本を理解し、お互いに脱線を演出した。その様子は『日本の町』(文春文庫)や『日本史を読む』(中公文庫)などで読者を今も楽しませてくれる。 ■「言論のアリーナ」と「脱イデオロギー」 まもなく創刊40年を迎える『アステイオン』の100号記念号は「言論のアリーナ」としての同誌の立ち位置が明確に読み取れる内容だったと思う。 創刊に携わられた山崎正和さんも、高坂正堯さんも粕谷一希も佐治敬三さんも亡くなり、とても寂しい思いがする。しかし、この間、サントリー学芸賞の充実ぶりなどを見るにつけ、サントリー文化財団の粘り強い営為に頭が下がる思いだ。 最後に「脱イデオロギー」について――。山本昭宏氏が「知的感興のための技術(アート)」(『アステイオン』100号)で、 都市・国際性・脱イデオロギーを『アステイオン』の特徴として挙げている。 豊かな時代になると、イデオロギーによる激しい分断と闘争に殉じるよりもグレーなままにしておく知恵が働くようになる。だが今日、80年代半ばの日本社会と比較すると、はるかに格差が広がり、分断・亀裂が進行し、民主主義が機能不全に陥り、危険な状態になっているかのように見える。しかし、より厄介なのは、イデオロギーの根源が「感情」だからではないだろうか。 『アステイオン』創刊号の巻頭言で山崎さんは「都市らしさとは、生の感情の沸騰でもなく、硬直したイデオロギーの観念でもない」と書いている。まさに硬直したイデオロギーの不毛な対立を続けてきた戦後論壇との決別宣言であり、目指すは「新しい知と情と行動の洗練」であった。それこそが都市らしさ(アステイオン)なのだろう。 サロンでは多様な意見が許されなければならない。もちろん、対立し相容れない見解もそうだ。繰り返しになるが、罵声や怒声は似合わない。それらは生の感情の沸騰である。山崎さんが『アステイオン』の編集会議の後は必ず酒を共にするとどこかに書いていたが、社交とはそういうものだろう。 生前の粕谷が時に口にしていたのは、西部劇のセリフ「彼の歌は信じない。しかし、彼は信じる」という言葉だった。高坂正堯さんは自ら「懐疑的保守」と宣言し、極力断定を避けたように見える。 それらの言葉を思い出す度、汗顔の至りであるが、その至りを20年続けていられる軽薄ささえも受け入れてくれるのが、都市の良さかもしれない。
高橋栄一(都市出版『東京人』編集長)