大物OB広岡氏が語る西武優勝の理由と黄金期到来の可能性
辻監督は、1983年のドラフト2位入団。そのときの監督が広岡氏で、1995年のオフに辻監督が自由契約になった際にも、当時、ロッテGMだった広岡氏が獲得オファーをしたというつながりがある。広岡氏は「将来、指導者としてロッテで育てたかった」という。 広岡氏は、辻監督が作りあげたチームをこう分析している。 「浅村、山川、中村、森らの一発を秘めた強力打線が目立つが、決して重量打線ではなく、きっちりと源田、外崎、栗山らのつなぎがいて足を絡める。秋山はリードオフマンであり、ポイントゲッターにもなった。打線の特徴は、打つべきボールを打っていて、打ち損じがないこと。これもコーチの教えなのだろう。徹底されている。山川という生え抜きの4番を作ったことで少なからず、中村、森らが刺激を受けたと思う。チームにいい競争意識が芽生えている」 チーム打撃成績の打率.273、193本塁打、773得点、128盗塁は、いずれも12球団トップ。昨年オフにFAで野上亮磨、牧田和久が抜けて、チーム防御率、4.25というリーグ最下位の数字となった“弱投”を打線と機動力でカバーした。 47本塁打、122打点の山川穂高、30本塁打、120打点の浅村栄斗、16本塁打、80打点の森友哉、28本塁打、73打点の中村剛也、24本塁打、81打点の秋山翔吾ら主役に加えて、源田壮亮、外崎修汰、栗山巧、金子侑司らの脇役が重要な役割を果たして打線をつないだ。 打線に主役と脇役を絶妙に配置してつながる打線を作るのも西武の伝統だ。 では、広岡氏が監督を務めていた1982年から1985年の4年間に3度のリーグ優勝、2度の日本一となった第一次黄金期と比べてどうなのか。 「私が監督をしていた頃の西武(1982年から1985年)との比較は難しい。そもそもチームカラーが違う。だが、このチームは、もっと強くなる。そういう可能性を感じさせてくれる」 実は、1982年の西武は、チーム打率.253はリーグ最下位。チーム得点529で5位、本塁打も131本で3位、盗塁数の70もリーグ最下位で機動力を絡めたわけではなかった。 クリーンナップは、テリー、田淵幸一、スティーブで組んでいたが打撃10傑に入っているのはスティーブ一人。それでも優勝したのは、防御率3.31、完封数14試合という投手力。投手では松沼博久・雅之兄弟、東尾修の3人が10傑に名を連ねていた。 2位のロッテに15ゲーム差をつけて優勝した1985年には若干打線が整備されたが、この年も工藤公康、渡辺久信らが台頭してきた投手力で守り勝った。それゆえ広岡氏は「チームカラーが違うので比較が難しい」というのだ。