丸山桂里奈がタレント転身後に最もお金を使う意外なモノ
アスリートでありながら、投資家としての意識を持つ「アスリート投資家」たちに、自らの資産管理や投資経験を語ってもらう連載「 アスリート投資家の流儀 」。2011年女子ワールドカップ(W杯=ドイツ)制覇のなでしこジャパンの点取り屋で、2016年の現役引退後はタレントやコメンテーターなどで多彩な活躍を見せている丸山桂里奈さんの2回目です。 2005年から東京電力マリーゼに所属し、東電の社員として働きながらサッカー選手としてのキャリアを送っていた丸山さん。その後は2010年に半年間、アメリカでプレー。同年秋に帰国し、ジェフユナイテッド千葉にアマチュア契約で入団、年俸なしという厳しい状況を強いられました。 それもすべては2011年女子W杯での成功のため。「なでしこジャパン」の一員として大舞台に挑んだ丸山さんはご存じのとおり、W杯優勝という偉業に貢献。国民栄誉賞にも輝きました。 ただ、賞金だけでその後の競技生活が保障されるわけではありません。2011年夏時点では東電やアメリカで稼いだお金を取り崩して生活していたといいます。丸山さんのプレー環境、マネー事情はそこからどのように変化していったのでしょうか。 前回 に続いて、彼女に本音で語っていただきました。 ■艱難辛苦を乗り越えた現役時代の後半 ――2011年の女子W杯優勝で、丸山さんや「なでしこジャパン」の選手たちの環境は大きく変化したと思います。大会後は千葉に戻られたんですよね? 丸山:はい。今のWEリーグ(日本女子プロサッカーリーグ)は秋春制なんですが、当時のLリーグ(日本女子サッカーリーグ)は春秋制だったので、W杯後も試合があって、自分もプレーしていました。ただ、アマチュア契約のまま、ずっと居続けるのはよくないなと考えるようにもなりました。 そんなとき、2012年からLリーグに昇格することが決まったスペランツァFC大阪高槻(現・スペランツァ大阪)から誘いを受けました。大阪にはなじみがなかったですけど、年俸も払われるプロ契約でしたし、移籍を決断しました。 ――その高槻で2012年シーズンの途中から監督を務めていたのが、現在のパートナーである本並健治さんでした。 丸山:そうですね(笑)。でも、あくまで監督と選手という間柄でした。私自身もチーム唯一のプロ契約選手ということもあって、日々、サッカーと真摯に向き合っていました。当時の高槻はよしもとクリエイティブ・エージェンシー(現・吉本興業)が出資し、経営にも参画していたので、待遇面も悪くなかった。私もしっかり生活できていました。 ところが、2年後くらいからスポンサーがいなくなって、一気に経営危機に陥ったんです。自分たち選手もスポンサー探しに奔走しましたが、なかなか見つからず、最後は社長がお金を持ち逃げするというアクシデントまで起きた。ゴタゴタが続きました。 ――そうなると、給料未払いもありえますね。 丸山:そうなんです。監督の本並さんは粘って交渉して何とか払ってもらえたみたいですけど、自分は最後まで払われなかったですね(苦笑)。 その間は知り合いの会社が個人スポンサーのような形でついてくれて、サポートを受けていました。週1回だけ出社して、スイーツを食べながらお茶を飲むくらいでしたけど、試合も見に来てくれましたし、本当にありがたかった。幸いにして、生活に困ることはなかったです。 ■丸山さんがタレントとして果たす"役割" ――チーム自体の活動自体も不安定だったのではないですか。 丸山:はい。チームの遠征費もないので、みんなで募金活動をして集めることもしました。練習後や土日に街頭に出て募金をお願いして、何とかやりくりした感じですね。 そういう状況だから、辞める選手が出てもおかしくないし、本並さん自身も辞任することはできたと思います。でも、みんな本並さんのことをリスペクトしていたから、残って活動を続けました。 最終的に本並さんが辞任することになった2016年に私も現役引退したんですが、そのタイミングで15人くらいがチームを離れました。それだけ人望があったということなんでしょうね。 ――丸山さんは当時33歳。引退後のセカンドキャリアのことは考えていたんですか。 丸山:正直、考えていなかったですね。女子サッカー選手の引退後といえば、指導者になっている人も何人かいますけど、そんなに多くない。結婚して家庭に入るのがやっぱり多いのかなと感じています。 2011年女子W杯優勝メンバーの中には、阪口夢穂さんのように行政書士と宅地建物取引士の難関資格を取得した人もいますが、本当にまれなケース。起業したり、再就職したりというのも簡単じゃないだろうし、女子選手にとってセカンドキャリアのことは課題かなと思います。 ――そういう中で、丸山さんはタレントの道を進みました。 丸山:私の場合は、現役時代から今もお世話になっているホリプロと契約していて、引退後にはイベントとかメディアに出してもらえる機会が増えていきました。事務所には本当に温かく迎えてもらって、ありがたかったです。 やっぱり人間にはそれぞれ役割があると思っていて、指導者や解説者になる人もいれば、日本サッカー協会やWEリーグで働いたり、別の世界で新たな人生を踏み出す人もいると思うんです。自分の場合は、テレビに出て当時のことを思い出してもらうのが1つの役割なのかなと考えて、「元なでしこジャパン」という肩書で活動するようになりました。 ただ、タレント的な仕事をしたいとは現役のときには考えていなかったんです。幼い頃から明石家さんまさんが大好きだったのはありますけど、たまたま周りの人にこういう道を作ってもらった。結果的には本当に楽しく過ごさせてもらっていますし、もう少し早く引退しておけばよかったかなと思うこともあります(笑)。 ■今いちばんお金を使っているのは意外なところ ――サッカー選手時代はアメリカ・フィラデルフィア所属時の年俸1000万円が最高収入だったと思いますが、メディア露出するようになってからはもちろん収入もグーンとアップしましたよね? 丸山:そうですね(笑)。徐々にバラエティーに出るようになって、選手時代より収入が多くなりましたね。でも、サッカーをやっていた頃よりも考えながら仕事をしていますし、自分のリズムが崩れないように配慮しないといけない。意外と神経を使うんですよ(笑)。 ――「お金は稼いだだけ使ってしまう性格」だと言っていましたが、それも変わりませんか。 丸山:全然変わりませんね(苦笑)。私は収録現場などに行くとき、みなさんにお菓子を毎回配っているんですが、そこに1回何万円も使うんです。「なんでこんなにお金がないんだろう」と思いますけど、それがいちばんの要因なのかもしれません(笑)。 ただ、自分の好きなものを一緒にお仕事させていただく方々に贈るというのは、無駄遣いという気はしませんし、ルーティーン化していますね。心の安定にもつながっているので、これからもやめるつもりはないですし、お金はかけ続けていきたいと思っています。 2011年女子W杯後の波乱万丈な現役生活を経て、未来のパートナーとも出会い、チームメートと苦労を乗り越えて戦った丸山さん。高槻での5シーズンで完全燃焼できたことで、悔いなくサッカー選手に区切りをつけられたのでしょう。 その後、タレントに転身したことも多くの人々を驚かせましたが、つねに周囲の人々に感謝しながら仕事と向き合う姿勢は、ボールを蹴っていた頃と変わりません。その親しみやすいキャラクターがあったからこそ、丸山さんはピッチ外でも成功を収めたのでしょう。 その丸山さんが現在の仕事に身を投じ、結婚・出産を経て感じたお金の管理、投資の必要性について、次回(5月28日配信)はうかがっていきます。 元川 悦子(もとかわ・えつこ)/サッカージャーナリスト。1967年、長野県生まれ。夕刊紙記者などを経て、1994年からフリーのサッカーライターに。Jリーグ、日本代表から海外まで幅広くフォロー。著書に『U-22』(小学館)、『初めてでも楽しめる欧州サッカーの旅』『「いじらない」育て方 親とコーチが語る遠藤保仁』(ともにNHK出版)、『黄金世代』(スキージャーナル)、『僕らがサッカーボーイズだった頃』シリーズ(カンゼン)ほか。 ※当記事は、証券投資一般に関する情報の提供を目的としたものであり、投資勧誘を目的としたものではありません。
元川 悦子