ヴァイオリニスト前橋汀子「『今夜も生でさだまさし』から10年超。チャリティーコンサートでさださんと『精霊流し』をヴァイオリンで弾いたことも」
◆10代からの真剣勝負 さだ 音楽を仕事にするのは大変なことです。前橋さんのような天才ばかりではないですから。特にヴァイオリンを弾いて生活できるのは、選ばれた人じゃないと。ソリストはもっと難しい。今は上手な若手がすごく多いですが、誰もが順調に活躍して巨匠になるかというとそんなことはない。挫折してよかったね、僕は。(笑) 前橋 今のさださんがあるのは挫折したからで。(笑) さだ ただ、「この歌を歌って」と言われた時、譜面を見て単旋律だったら初見で歌えるのは、ヴァイオリンをやっていたおかげです。前橋さんは小野アンナ先生に師事されていたんですよね。 前橋 5歳からです。金髪の白系ロシア人の、とても厳しい先生でした。貴族の出身で、家の中でもハイヒール。シルクのブラウスに黒いタイトスカートを着て。 さだ おしゃれだったんですね。子ども心に、レッスンに行くのはイヤじゃなかったですか? 前橋 母が厳しかった。(笑) さだ お母さまですね、やっぱり。ヴァイオリン弾きは〈お母さま〉が大事。うちのお母さまも(笑)、ヴァイオリンのことはわからないのに厳しかった。もちろん長崎の先生も怖かったですよ。今思えばプロを育てるための教育をしてくれたと思います。 前橋 どんなふうに? さだ 土曜になると生徒たちが集められてソルフェージュ(読譜など音楽理論の基礎を学ぶレッスン)をします。聴音は必ずやりましたね。日曜はオーケストレーション(各楽器のパートを割り当て、音色や音量、演奏法などを指示する)を朝9時から午後5時まで。 前橋 ええー。スパルタですね。
さだ 食事とおやつの休憩はありました。上手になって弾くポジションの順位が上がると、譜面が配られて初見奏です。 前橋 その時、さださんは小学生でしょう? さだ はい。僕は中学に入る時、ヴァイオリンのために1人で上京して下宿生活を始めましたから。でも前橋さんは、東京どころかレニングラードに行かれたわけです。 前橋 17歳で高校を中退して、レニングラード(現・サンクトペテルブルク)音楽院に留学しました。横浜港から船に乗って太平洋を北上、津軽海峡を渡って日本海に出て、ナホトカまで3日かかりました。ウラジオストクまで汽車で24時間。シベリア大陸を横断し、モスクワ経由でレニングラードへ。 さだ 横浜からどれくらいかかるんですか? 前橋 1週間かかりました。冷戦の1960年代ですから。スターリンが亡くなってから8年しか経っていない。今思うと知らない土地によく飛び込んでいけたな、と。 さだ なぜ、留学したいと? 前橋 世界的ヴァイオリニスト、ダヴィッド・オイストラフの素晴らしい演奏を聴いたからです。日ソ国交回復の前年に初来日したオイストラフのコンサートが、日比谷公会堂で開かれました。母はどうしても私に演奏を聴かせたいと、高価なチケットを1枚だけ買って。コンサートが終わるまで、母は階段の下で待っていました。 さだ どんな演奏だったのでしょう? 前橋 初めてプロの見事な演奏を聴きました。ヴァイオリンを自由自在に、まるで体の一部のように弾く演奏に触れ、子ども心にもすごく感動して。ソ連に行けばあんなふうに弾けるようになるんじゃないかと(笑)。それでどうしてもソ連で勉強したいと思ったのです。 さだ レニングラード音楽院といえば、1回生がチャイコフスキーですね。 前橋 私は音楽院の創立100年記念の行事の一環で、共産圏以外から選ばれた初の留学生でした。 さだ チャイコフスキーの後輩じゃないですか。 前橋 そうです。(笑) さだ 羨ましい。「私の先輩、チャイコフスキーなんです」って言ってみたい。 (構成=小西恵美、撮影=岡本隆史)
前橋汀子,さだまさし
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