手塚治虫、貸本マンガ、劇画、「ガロ」と「COM」、マンガはいかに進化し、世界に誇るコンテンツになっていったのか
2024年3月1日、マンガ家の鳥山明氏が急性硬膜下血腫により、68歳で他界した。その訃報を世界中のメディアが報じたように、『ドラゴンボール』をはじめとした鳥山作品は世界中のファンに深く愛された。連載されていた少年ジャンプの発売日になると、先に入手した同級生が、さも自慢げに話の筋を語っていた小学生時代が懐かしい。 【実際の写真】中川氏が大切にしている『ガロ』の現物。200ページ中、100ページが『カムイ伝』といった型破りな構成だった なぜマンガはここまで求められる巨大な産業になったのか。そこにはマンガ創成期を支えたレジェンドたちの試行錯誤の歴史があった。『第二次マンガ革命史 劇画と青年コミックの誕生』(双葉社)を上梓した、作家で編集者の中川右介氏に聞いた。(聞き手:長野光、ビデオジャーナリスト) ──本書のタイトルは『第二次マンガ革命史』です。第一次マンガ革命と第二次マンガ革命がいつ頃から始まり、いつ終わったのか、またそれぞれの特徴がどのようなものだったのか、教えていただけますでしょうか。 中川右介氏(以下、中川):「第一次」「第二次」という形でマンガ史の変化を分けましたが、これは私が設けた分類で、一般的にこのような分類があるわけではありません。 この前提を踏まえた上で話をすると、マンガが大きく変わったのは、1947年に手塚治虫先生が発表した『新宝島』というマンガからです。この作品には、それ以前のマンガとは全く異なるスタイルが見られました。 戦前の子ども向けのマンガでは、田河水泡が描いた『のらくろ』などが有名です。主人公がいて、お話めいたものはあるのですが、基本的には面白おかしいという感覚を、短い絵と文字の連続で見せるというスタイルでした。 手塚先生はそんなマンガの世界に、映画や小説に匹敵するくらいのストーリー性を盛り込んだのです。そのため、手塚先生の作品は「ストーリーマンガ」と呼ばれました。裏を返せば、それまでのマンガにはストーリーがほとんどなかったということです。 これが最初の革命です。第二次革命はその延長にあるもので、1960年前後に始まり、手塚ストーリーマンガを継承しつつも否定し、10年ほどかけて拡大していったムーブメントです。その舞台は貸本マンガであり、そこから「劇画」が誕生しました。 ──本書には、「貸本マンガ」という言葉が幾度も登場します。貸本マンガとは何でしょうか? 中川:昔は貸本屋というものがありました。その名の通り、本を貸すお店で、少し前まであったレンタルビデオ店と同じようなものです。