ガザで繰り返される悲劇をいかに受け止めるか
救う/救われるの関係を超えて
三牧 去年のクリスマスに、キリスト生誕の地ベツレヘムのある牧師の説教が話題になりました。「パレスチナの人たちはこれから復興に向け、必ず立ちあがるだろう。しかし、彼らが虐殺されるのを見過ごしてきた人々が立ち上がれるかどうか。私はわかりません」という内容でした。その意味するところは、国際社会に向かってここまで切実に助けを求めているパレスチナ人が目の前にいるのに、それを助けないことは、そうした選択をした人々に回復不能な深い道義的な傷を与えるのではないか、ということです。 福祉の世界では、ケアする側/ケアされる側の関係は一方向の固定的なものではないと語られているとのことですが、この話は、ケアとは正反対のところにある、非人道的な行いにも通じる話なのではないでしょうか。非人道的な扱いを受けている人を、助けられる立場にあるのに、自分可愛さで助けずに見過ごしてしまえば、その人も人間らしく生きることはできなくなってしまう。そういう関係について考えさせられます。 岡 ケアする側とケアされる側の関係が一方向的なものでないという認識は、ナチスの時代の潜伏ユダヤ人と救援者たちとの関係性にもあてはまると思います。助けた立派な人と助けられた弱々しい人という構図を超えた人間同士の交流こそ、彼らの関係性の本当の姿だったと私は確信しています。 「人とのつながり」が必要な現代に読まれるべき「勇気の書」
私たちは本当にマジョリティなのか
岡 この本を出版した後、色々な方が感想を寄せてくださったのですが、興味深いことに、「もし自分だったら……」と想像する際に、ほとんどの方が自分の身をドイツ人の側に置いて考えてくださっていました。これはもちろん、「沈黙の勇者たち」というタイトルによるところも大きいとは思いますが、それだけではなく、もしかしたら、日本社会の特質と何か関係があるのかもしれないとふと思いました。 三牧 本の終わりのほうで言及されている「多様性(ダイバーシティ)」に関わる論点ですね。もっとも言葉こそ広まりましたが、この言葉が本当に意味するところは何か、一致を見ていないように思います。 日本で「多様性」が盛んに議論されるようになった背景には欧米、とりわけアメリカの影響がありますが、確かに日本では「多様性」の議論が、あまり噛み合わないことが多い。自分がマジョリティ側であることを当然視し、マイノリティから日本社会を見たらどう見えるか、という視点や問いが欠けている人が多い、ということなのかもしれません。 岡 そうかもしれません。私たちは日本という社会のなかで、もしかすると無意識のうちに自分を多数者の側において考える習慣が身についているのかもしれません。 少し話がそれますが、「インクルージョン」ということばの捉え方にも、これと共通するものを感じることがあります。インクルージョンというのは、ソーシャル・マイノリティの立場におかれている人々の不利益を解消しながら、すべての人の平等な社会参加を実現しましょうという考え方です。 けれども、日本ではごく最近まで、インクルージョンといえば、もっぱら障害のある人の話だと思っている人が多かったと感じます。実際には、日本にもエスニシティや宗教、ジェンダー等、障害のほかにも多様な「マイノリティ」が存在しているにもかかわらず。 三牧 自分がマジョリティ側であることを疑わない人こそ、「本当に私はマジョリティなのか」を問うてみることは大事ですね。岡さんの本には、ナチスドイツで絶対的な迫害にさらされた側が見せた強さやある種のしたたかさが描かれています。 「弱さ」「強さ」は、文脈次第でいくらでも変わるし、非対称的な関係においても、「助け合い」は成立しうる。日本社会に、助けられる側の人間に自己投影できなくなっている、つまり自分も助けられる弱者側になるかもしれない、という想像力が持てない人が多くなっているとすれば、行き着く先は殺伐とした自己責任社会。発想の大々的な転換が必要ですね。 岡 なるほど、確かにそうかもしれませんね。 三牧 ナチス政権による迫害の中で、ユダヤ人たちは圧倒的な弱者の立場に置かれながらも、未来への希望を捨てずに赤ちゃんを産み育て、見つかった際に家族がみんな捕まってしまうということにならないように、バラバラに避難した。 どうにかして、たとえ自分は死んでも、誰かに命や生を託して未来をつなごうとした。医師は自分の生命を危険に晒しながらも、目の前にある死にそうな命を助けるために奮闘しました。岡さんの本は、ユダヤ人たちの生への渇望、生き抜く強さを克明に描いている。 皮肉なことに、そのようなユダヤ人たちが極限状態で見せた強さは、現在ガザでイスラエルの無差別的な軍事行動にさらされ、それでも生き抜こうとするパレスチナ人の姿と重なるところがあります。 パレスチナでは、今もお母さんたちは、イスラエルによる物流停止で帝王切開の麻酔もないままに子どもを産み、子どもを別々の部屋に寝かせ、生き延びさせようとしている。イスラエルの攻撃にさらされた病院では、医師たちが、自分の命も犠牲にして死ぬまで患者を助け続ける。その姿に、ユダヤ人は、かつての自分たちを重ねることもできるはずです。 しかし、イスラエルのユダヤ人、さらにはアメリカに住むユダヤ人の多くも、ガザ攻撃を支持している。まるで、自分たちが弱者であった時に見せた強さを忘れてしまったかのようです。もっとも、アメリカのユダヤ人の中には、数としては少数派ながらも、「ジェノサイドを経験した私たちだからこそ、二度とジェノサイドを許してはならない」とイスラエルの軍事行動を批判する人たちもいる。 そうしたユダヤ人は「平和のためのユダヤ人の声(Jewish Voice for Peace)」などの団体を組織して、即時停戦を求めてデモを行っています。ユダヤ人たちが、民族が被った悲劇的な経験を、戦争とジェノサイドに抗する「強さ」として昇華していく未来を信じたいです。 そのような現在の世界情勢を考える上でも、岡さんの『沈黙の勇者たち』は大変重要な示唆を与えてくれると思います。ぜひ一人でも多くの方に読んでいただきたいと思います。 (おわり) ※この対談は、岡典子『沈黙の勇者たち ユダヤ人を救ったドイツ市民の戦い』(新潮選書)の司馬遼太郎賞受賞を記念して行われたものです。
岡典子,三牧聖子