体育で公開処刑…なぜ授業で、辱めを受けなくてはいけないのか。トラウマになりかねない現代の「体育事情」
恥ずかしさの誕生
20世紀フランスの哲学者であるサルトルは、ノーベル文学賞を辞退したカッコイイ人です……が、ここではその話ではなく、恥ずかしさの感情についての、彼の議論を参考にしてみたいと思います。彼は、有名な「鍵孔」の例を挙げて、私たちの恥ずかしさの正体を考えています。 次のような場面を想像してください。みなさんの目の前には一つの部屋があり、そこへ入る扉は閉じられています。みなさんは好奇心に駆られて、その扉の鍵の孔から部屋のなかをのぞき見ています。そのとき、背後で足音が聞こえます。その瞬間、きっとみなさんは扉から離れて我に返り、自分のしていた行為を「恥ずかしく」思うのではないでしょうか。 この例で重要な点は、みなさんの行為が本当に誰かに見られたかどうかはわからないのに、「恥ずかしさ」を感じてしまうというところです。なぜ私たちは、本当は見られていないかもしれないのに、「恥ずかしさ」を感じてしまうのでしょうか。それは、私たちが他者の視線、つまり「まなざし」を、勝手に意識してしまっているからです。このことについて、サルトルは次のように表現しています。 羞恥は、「私は、まさに、他者がまなざしを向けて判断しているこの対象である」ということの承認である。(ジャン=ポール・サルトル著、松浪信三郎訳、2007年、『存在と無Ⅱ』、筑摩書房) 少し言い換えると、他者に見られたら「恥ずかしい」行為をしている私を、他者が「まなざし」ているということを私が意識したから、私は「恥ずかしさ」を感じた、ということです。 この例からは、恥ずかしさの正体について、少なくとも一つのことがわかります。それは、「恥ずかしさ」が他者との関係において生じるということです。このことを、サルトルは次のように言っています。 羞恥は、その最初の構造においては、誰かの前での羞恥である。(前掲書) このように、私たちが「恥ずかしさ」を感じるそのスタートには、他者の存在があるわけです。つまり、私たちは、他者に見られていることを自覚することによって、はじめて恥ずかしさを感じるということです。 ---------- 坂本拓弥(さかもと たくや) 1987年東京都生まれ。千葉大学教育学部を卒業。東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科を単位取得退学。博士(教育学)。明星大学教育学部助教を経て、現在は筑波大学体育系助教。専門は体育・スポーツ哲学。特に身体論と欲望論。共編著に『探究 保健体育教師の今と未来 20講』(大修館書店)、共著に『スポーツと遺伝子ドーピングを問う:技術の現在から倫理的問題まで』(晃洋書房)、『はじめて学ぶ体育・スポーツ哲学』(みらい)などがある。 ----------