在籍1年でJクラブ消滅「ショックでした」 異例の経験、小野伸二らと共闘…紆余曲折のサッカー人生【インタビュー】
【元プロサッカー選手の転身録】氏家英行(横浜F、大宮、草津ほか)第1回:遠藤保仁らと同期でキャリアスタート
世界屈指の人気スポーツであるサッカーでプロまでたどり着く人間はほんのひと握り。その弱肉強食の世界で誰もが羨む成功を手にする者もいれば、早々とスパイクを脱ぐ者もいる。サッカーに人生を懸けて戦い続けた彼らは引退後に何を思うのか。「FOOTBALL ZONE」では元プロサッカー選手たちに焦点を当て、その第2の人生を追った。 【写真】クラファンは500万円超…41歳で現役引退→ラーメン屋開業の元Jリーガー 今回の「転身録」は、横浜フリューゲルス、大宮アルディージャ、ザスパ草津(現・ザスパクサツ群馬)でプレーした氏家英行。在籍1年で所属クラブが消滅する事態に直面した一方、遠藤保仁や小野伸二らとも共闘した経験を持つ氏家が歩んだ紆余曲折のサッカーキャリアを振り返る。(取材・文=河野 正) ◇ ◇ ◇ 氏家英行の母校、練馬区立三原台中学サッカー部は、都内でもベスト8に入る強豪だった。中学3年生の秋、同級生と後輩の3人で横浜マリノスユースの選考試験に挑んだが、自分だけ落ちてしまった。次に三菱養和SCを考えていた時、横浜フリューゲルスユースの存在を知って受けてみたら吉報が舞い込んだ。 アスリートとして生きていく人生が、ここで決まった。 4年制の通信高校に通い、3年時にトレーニー契約(研修生)を結び、卒業後の1998年にプロ契約を交わしてトップチーム昇格。同期にはいずれも1つ年下で、高校サッカーの名門から加入した遠藤保仁、手島和希、大島秀夫、辻本茂輝がいた。 「同い年でユースから上がれたのは僕1人でしたが、遠藤たちは4人ともU-18日本代表で、自分だけがまったくの無名だったんです」 Jリーグデビューは98年3月25日の浦和レッズ戦。前半35分に同期の大島に代わり、今で言うアンカーの位置に入った。J1唯一の得点が、第2ステージ第7節の名古屋グランパスエイト(現・名古屋グランパス)戦だった。 横浜Fは運営母体の1つである佐藤工業が経営から撤退し、98年限りで消滅。横浜Mに吸収合併された。「新聞報道で知りました。在籍1年でなくなっちゃうんですからね、ショックでしたよ」と述懐する。 遠藤ら同期の4人は、揃って京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)へ移籍。氏家も京都を打診されたが、「試合に出られる自信がなかったし、親も賛成してくれた日本体育大に進んで卒業後は体育教師になることも考えていました」と意外な一面を披露する。 だが、先発したコンサドーレ札幌(現・北海道コンサドーレ札幌)とのリーグ最終戦でウーゴ・マラドーナの監視役を任され、完璧に抑え込んだ。 99年にJ2が創設された。参入メンバーである大宮アルディージャが、このプレーを高く評価して獲得を申し出た。大学進学を断念する。 「若いうちに多くの試合を経験するのがベターだし、レベル的にもちょうどいいと判断して、未知の世界に挑戦しました。J2ができていなかったら、大学サッカーに打ち込んでいた可能性が高かったと思う」