「元気があれば、何でもできる」「馬鹿になれ…」アントニオ猪木が残した様々な名言 ベスト1は
闘魂ビンタに「元気ですか!」
相手に喝を入れる「闘魂ビンタ」も懐かしい。参議院の予算委員会では決め台詞の「元気ですか!」を委員長から「心臓に悪い方もいる」と注意されたこともあった。だが翌日、懲りずに再び絶叫した猪木。国会でも「規格外のカリスマ」だったと言っていい。 そんな猪木の79年に及ぶ波乱の人生をたどる企画展が、今年2月、故郷でもある横浜市みなとみらい地区の大型商業施設で開催された。猪木が獲得したチャンピオンベルトやリングに上がる際に着ていたガウン、真っ赤なタオルなど懐かしい品々が展示され、多くの猪木ファンでにぎわった。 開催前日、マスコミ向けの内覧会があり、私も取材で会場を訪ねた。うれしいことに、猪木の愛弟子である藤波辰爾(70)がゲストとして参加しているではないか。 IWGPヘビー級王者だった藤波。1988年8月には横浜文化体育館で猪木からの挑戦を受けた。日本人同士の、しかも師弟対決となった大一番。結果は60分フルタイムドローだった。 企画展では当時の熱戦を写したパネルも展示された。猪木が藤波を必殺技コブラツイストで決めた瞬間である。藤波さんは「懐かしいなあ」。食い入るように見ていた。
常に時代を先取り
ここで猪木の生涯を年表でたどってみよう。 1943年2月20日:横浜市鶴見区で生まれる 1957年:家族でブラジル移住。コーヒー園などで働く。やがて砲丸投げや円盤投げに熱中し、ブラジルの全国大会で優勝する 1960年:サンパウロを訪れていた力道山にスカウトされ、馬場正平(ジャイアント馬場=1938~1999)とともに日本プロレスに入団。四角いリングの世界に飛び込む。デビュー戦の相手は大木金太郎(1929~2006) 1972年:新日本プロレス設立。旗揚げ戦(大田区体育館)でカール・ゴッチ(1924~2007)と対戦し、敗れる 1976年:ミュンヘン五輪柔道金メダリストのウィレム・ルスカ(1940~2015)との異種格闘技戦で勝利 同年:モハメド・アリ(1942~2016)との異種格闘技戦で引き分け 1987年:「巌流島の戦い」で2時間超の熱戦の末にマサ斎藤(1942~2018)を下す 1989年:スポーツ平和党を結成。参院選初当選 1990年:イラクで「平和の祭典」開催 1995年:北朝鮮でプロレス興行 1998年:東京ドームで引退試合 2013年:日本維新の会から参院選に立候補し当選(比例区)。18年ぶりに国政復帰 2019年:政界引退 2020年:難病「心アミロイドーシス」を公表 年表を振り返って改めて分かるのは、猪木という男は時代を先取りしたアイデアと抜群の行動力の持ち主だったことである。ショー的要素が強いプロレスとは決別し、「ストロングスタイルのプロレスをめざそう」と設立した新日本プロレスでは、数々の名勝負を繰り広げた。力道山時代には御法度とされた日本人同士の対戦カードも組んだ。前述した藤波のほか、長州力(72)、初代タイガーマスク(佐山聡=66)、前田日明(65)ら若手の育成にも励んだ。 だが、何よりも世間を驚かせたのは、1976年6月26日、「ザ・グレーテスト」を標榜したボクシングの世界王者モハメド・アリとの異種格闘技戦だった。会場は東京・日本武道館。45分フルタイムドローの引き分けとなり、「世紀の凡戦」と酷評された。 アリへの莫大なファイトマネーの支払いで多額の借金を背負い、窮地に陥った猪木。だが、その後、黄金期を迎える。「熊殺し」の異名をとった極真空手のウィリー・ウィリアムス(1951~2019)らとの異種格闘技戦を推し進め、世界の大巨人アンドレ・ザ・ジャイアント(1946~1993)や不沈艦スタン・ハンセン(74)、超人ハルク・ホーガン(70)らとの名勝負を繰り広げ、ファンを熱くさせた。一方でさまざまな名言も残している。