憧れのヒーローだった大下弘さんは、監督には向いていない人だった【張本勲の喝!!】
じゃんけんで代打
68年に東映を指揮した大下弘監督。右腕の包帯は……
プロ野球選手になるほどの人間なら、少年時代に憧(あこが)れた野球選手はいただろう。もちろん私もいた。青バットの大下弘(西鉄ほか)さんであり、赤バットの川上哲治(巨人)さんだ。物干し竿の藤村富美男(阪神)さんとともにこの3人は私に限らず、当時の野球少年にとっては憧れの存在だった。いや、国民的スターだったと言っていいかもしれない。 特に大下さんと川上さんは私と同じ左打者であり、憧れも大きかった。若い読者には分からないかもしれないが、当時の子どもは「めんこ」でよく遊んだものだ。大下さんと川上さんの「めんこ」は大人気だった。 まさか何十年後、その大下さんと選手と監督として同じチームでプレーすることになるとは夢にも思わなかった。そもそもプロ野球選手になることもまだ夢の段階。それでも当時、誰かがそんな予言をしてくれていたら、これ以上の喜びはなかっただろう。プロになれるばかりか、大下さんの下でプレーできるのだ。 だが、その夢が現実となった1968年(昭和43年)、私は非常に苦い思いを味わうことになる。川上さんはV9時代を築いて大監督になるわけだが、大下さんは川上さんとは対照的に、監督にはまったく向いていない人だった。名選手名監督にあらずとはよく言われるが、それはまさに大下さんのことだった。 68年と言えば・・・
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週刊ベースボール