創部6年目、1962年夏初出場、習高の黎明期 甲子園が先か、東大合格が先か /千葉
<2019 第91回センバツ高校野球> ◇初代校長が生徒鼓舞 23日開幕の第91回選抜高校野球大会に10年ぶり4回目の出場をする習志野は、創立6年目の1962年夏に甲子園初出場を果たしている。その偉業の陰には、「甲子園が先か東大合格が先か」と生徒を鼓舞した初代校長、山口久太(ひさた)さん(93年に82歳で死去)の姿があった。甲子園優勝2回を誇る伝統校の黎明(れいめい)期を振り返る。【秋丸生帆】 習志野市の次代を担う人材を育成するため、57年に市立習志野高は創立した。しかし、開校前年の56年10月時点で志願者数はわずか9人。初代市長の故白鳥義三郎氏の要請から、元箱根駅伝走者で進学校の校長を務め、教育者として評判が高かった山口さんの校長就任が決まっていた。山口さんは生徒募集のポスターを手に中学や各戸を訪ね回ったという。 1期生で野球部初代主将の小関和夫さん(77)も中学時代は地元で知られた球児で、山口さんの訪問を受けて学校説明会に参加した。市側が約200人の定員を示すと、保護者が「定員に足りなかったらどうするのか」と疑問を呈した。「そんなことは絶対にさせません」。小関さんは力強く断言した山口さんの姿を鮮明に覚えている。「白髪の長身でスーツを着こなし、外国人のようだった。熱心な様子に強烈な印象を受けた」と振り返る。 山口さんは開校に向けて、勉強やスポーツで実績のある各地の教師に頼み込んで採用を続けた。「習志野にはすごい先生がいる」と評判は高まり、入学試験では定員を大きく超える約600人が受験した。 57年4月、習志野で初の入学式が執り行われた。ただ校舎は建設中で、小関さんら1期生は同8月末まで近くの津田沼小で授業を受けた。「小学生用の机と椅子を使っていて、厳しい競争率の中から合格して高校生になったのにがっかりした」と笑う。 創立と同時に創部した野球部は甲子園出場経験のある若手監督が就任したが、部員約20人の半数が初心者だった。休日は人も集まらず、他校に練習試合を申し込んでも断られた。小関さんは「学校も部活もひどい状態だったけど、久太先生は『甲子園が先か東大合格が先か』と毎日のように開かれる集会で生徒を鼓舞していた」と話す。 高い目標を繰り返す山口さんの期待に応えるよう、習志野の運動部は成績を上げた。山口さんの人脈を通じて各地の強豪校と試合を重ねた野球部は創立6年目の62年夏、東大合格に先駆けて甲子園初出場を果たす。この年はバレー部、サッカー部、体操部がそれぞれ全国大会に出場した。 甲子園初出場時のメンバー、片柳穎作(えいさく)さん(74)は頻繁に練習に姿を現し、選手に声をかけていた山口さんの姿を思い出す。打撃練習中に山口さんから「練習が終わった後を大事にしなさい」と一言だけ言われた。言葉の意味に悩み、帰宅後に1000本の素振りを日課にした。夏の県大会では中軸を担い、甲子園初出場に貢献した。片柳さんは卒業式後、校長室で山口さんに「一人の時にこそ努力をしろという意味でしたか」と尋ねた。山口さんは「そうだ。だから甲子園に行けただろう」と笑顔で答えたという。 山口さんは野球部が甲子園で優勝した翌年の68年に退任。その後、八千代松陰を創立するなど、生涯を教育にささげた。片柳さんは「『甲子園が先か、東大が先か』と発破をかける山口さんの言葉の裏には、大きな舞台に立つために、自分一人でも努力しろという意味があったのかもしれない」と思う。山口さんの思いは建学の精神として今も引き継がれる。「雑草の如(ごと)く逞(たくま)しく」。高い目標に向かって、力強くひたむきに努力してほしいという山口さんの願いだった。