石田三成は処刑、毛利は減封、でも島津は…関ヶ原の戦いで徳川家康に敗れた西軍武将たちが辿った意外なその後
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、西軍の武将たちを次々に処分した。歴史評論家の香原斗志さんは「だが、家康は島津家の本領を安堵した。関ヶ原からの決死の退却が功を奏したと言える」という――。 【写真】なぜここに?…西軍の副大将・宇喜多秀家の墓がある場所 ■関ヶ原合戦の戦況を一変させた「あの男」の裏切り 天下分け目の関ヶ原合戦は慶長5年(1600)9月15日、美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)を主戦場に開戦した。その日、山に囲まれたこの盆地には朝霧が立ち込め、通常なら夜明けとともに戦闘がはじまるのに、なかなか戦端が開かれなかった。開戦は午前8時ごろだと考えられている。 それからしばらくのあいだ、西軍は東軍の猛攻の前に頑強に抵抗していた。ところが、昼ごろのこと。西軍として松尾山に陣取っていた小早川秀秋の軍勢が、下山して大谷吉継の軍勢に側面から襲いかかると、戦況は一変した。そして、稀代の逃走劇も繰り広げられることになったが、その前に、関ヶ原で開戦にいたるまでのいきさつを、簡単に振り返っておきたい。 上杉景勝攻略を停止し、西に踵を返した東軍は、西軍の主力が集結している大垣城(岐阜県大垣市)をめざして進軍した。だが、直前の軍議では、大垣城を攻めるのは避け、三成の居城である佐和山城(滋賀県彦根市)をめざし、さらに大坂まで進んで総大将の毛利輝元と決戦すべきだという意見が大勢で、そのように進むことになった。 むろん徳川家康側には、石田三成を野戦に誘い出すというねらいがあった。一方の三成側は、輝元が幼い豊臣秀頼を引き連れて進軍してくることに期待をかけたが、実現しない。 こうして西軍は、大坂の加勢なしに東軍を倒すほかなくなり、大垣城を出て関ヶ原に向かった。第一隊を石田三成、第二隊を島津義弘、第三隊を小西行長、第四隊を宇喜多秀家が率いていた。
■宇喜多も三成も逃走したのちに残された 今回の話の主役は第二隊を率いた島津義弘である。島津隊は午前4時ごろに関ヶ原に到着。そこに参加していた神戸五兵衛の覚書によれば、「石田隊は島津隊の東に位置していた」という。続いて、小西隊が到着して島津隊の右に陣取り、最後に到着した宇喜多隊が、石田隊、島津隊、小西隊の南方にそびえる天満山の前に陣取った。 午前中は戦線が膠着状態だったのは、内通している小早川隊が形勢を傍観して動かなかったからだった。焦った家康が「問い鉄砲」を放って下山をうながすと、小早川隊は松尾山を下って大谷隊に突入した。 大谷吉継には小早川の離反は想定どおりで、当初は応戦していたが、松尾山の麓に陣取っていた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保が一斉に離反するにおよんでは、もう防戦しきれず、吉継は自刃。この状況で家康は旗本勢に一挙に進撃させ、西軍の各部隊は次々と崩れていった。 大谷隊の次に崩れたのが小西隊で、次に宇喜多隊が崩れた。この期におよんで、激しく抗戦していた石田隊も潰えた。すでに宇喜多秀家も石田三成も逃走したのちに、最後まで戦っていたのが島津隊だったが、東軍に包囲され、退路を断たれてしまう。 このため壮絶な退去劇が展開されることになったのだが、その様子を具体的に見る前に、主役である島津義弘について簡単に整理しておきたい。 ■慎重な兄・義久と勇猛な弟・義弘 義弘は天文4年(1535)、島津家の15代当主、島津貴久の次男として生まれ、父の家督を継いだ兄の義久を補佐した。天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐後、降伏しながらも薩摩(鹿児島県西部)と大隅(鹿児島県東部)が島津家に安堵されると、兄から家督を譲られて17代当主となった。 ただ、その後も兄の義久が政治に関しても軍事に関しても実権を握っており、家督の譲渡は形式的なものだった可能性もある。だが、そのことはのちに功を奏している。 義弘の勇猛ぶりは名高い。秀吉の九州征伐の際も兄の名代として戦場に赴き、みずから刀を抜いて敵陣に斬り込んだともいわれる。朝鮮出兵に際しても、慶長の役における泗川(しせん)の戦いでは、7000の兵で3万を超える敵を討ったと伝えられる。 そして関ヶ原だが、義弘は兵を1000しか率いていなかった。中央権力とは距離を置くのが兄の義久の志向で、このため義弘に十分な兵力を送らなかったのである。西軍への参戦を決意し、すでに伏見城攻めにも参加した義弘は、国許に援軍を求め、390人ほどの兵が新たに上京した。