長野県が誇る銘酒「真澄」はなぜ食通を唸らせるのか?蔵元にそのこだわりのと美味しさを聞いてみた
50年超えのヴィンテージの「真澄」が揃う、圧巻の展示スペース
試飲のあとは、「セラ真澄」の奥に今年新たに誕生した特別な展示スペースに潜入です! 一般公開はされていませんが、今回特別にご案内いただきました。ドキドキしながら入口の扉を開けると、1971年から現在まで、50年以上の各年の「真澄」がズラリ。日本酒愛好家も驚くこと間違いなしの、圧巻の景色が広がります。 「ここには一番古いものだと1971年の『真澄』が置いてあります。古酒は2021年から販売をスタートしましたが、まだまだ認知されていません。そこで、『真澄』の古酒の存在を知ってほしいと考え、展示スペースをつくりました。1971年以降のすべてのヴィンテージが揃っているので、お客さま一人ひとりにとっての思い入れのある年を『真澄』でお祝いしてもらえたら嬉しいです」(宮坂さん) この展示スペースに保管してあるのは一升瓶ですが、「セラ真澄」では720mlのサイズで販売しています。
激動の時代を生き、2度の危機を乗り越えた蔵の歴史
長野県は山が多く、県全体の8割を占めています。諏訪も例外ではなく、山々に囲まれた場所にあり、標高は759m。そして豊かな霧ヶ峰の伏流水に恵まれていた諏訪は、酒づくりの盛んな土地に。甲州街道沿いには、真澄を含めて5つの蔵が軒を連ねています。 歴史を紐解くと、明治維新後の1920~30年代、諏訪には比較的早い時期に鉄道が開通し、横浜と繋がりました。今でも中央線は諏訪から八王子を通り、そこから横浜線で横浜まで繋がっていますが、これも当時の名残りなんだとか。 鉄道が繋がったことで諏訪の地に人や物が集まるようになり、諏訪は繁栄しました。しかし当時、まだ市場競争力のなかった「真澄」の蔵は一度、潰れそうになったこともあったそうです。 その後、第二次世界大戦に突入すると、2度目の危機を迎えます。戦時中は米の入手が困難になり、蔵も存続の危機に。同時に、統廃合で暖簾を下ろした蔵も多い時代でもあったそう。しかし「真澄」の蔵は「1920~30年代に、真面目に酒づくりを続けていた」ことが政府から評価され、蔵の統廃合から免がれ、現代に続いています。 蔵の息子として生まれた宮坂さんですが、かつては「真澄」の蔵のことを、国内にある日本酒の蔵の中のひとつに過ぎないと思っていたそうです。 「こうして蔵の歴史を知ることで、唯一無二の蔵なのだと感じられるようになりました。激動の時代の変化とともに歩んできた酒づくりをいかに次の時代に繋いでいくか。未来へ向けて、日本酒の価値をどう呼び起こしていけるかを日々、考えています」と宮坂さん。