水俣病問題を考える〈コラム一草一味〉
和田 勝 福祉社会総合研究所代表 第二次大戦後から高度経済成長期にかけて、熊本県の水俣湾および新潟県の阿賀野川流域にある化学工場から排水中のメチル水銀化合物が食物連鎖で魚介類に濃縮され、これを住民が長期にわたり日常的に食べたことにより、多くの中毒(水俣病)患者が発生した。 水俣病の発生が1956年5月に初めて公式報告されてから68年が経過した。68年9月、国は水俣病を公害病と認定し、患者の認定と被害補償、公害対策の徹底が大きな社会・政治問題となった。 70年8月、健康被害救済法に基づく水俣病認定の申請が熊本県知事にあったが、県の認定審査会は「審査会判定は公害補償との関連があり、慎重を要する」との考えだった。申請を棄却された患者のうち9人が厚生省に行政不服審査請求をし、環境庁発足直後の71年8月、国は、認定しないという知事の処分を取り消す裁決を行い、事務次官通知で認定基準を示した。 三木武夫副総理が73年に現地訪問した際、患者の健康福祉を支援する国立の総合センター設置を約束し、国立水俣病研究センターが78年に設置された。村山富市首相は95年12月、原因の確認、企業への対応の遅れを陳謝した。2009年には被害者救済と水俣病問題の解決に関する特別措置法が成立し、判断条件を満たさないものの救済を必要とする人を水俣病被害者として救済することとなった。これまで2284人が認定を受けたが、その9割が既に亡くなっており、患者の平均年齢は80歳を超えている。 しかし、熊本では1400人もの人が今も認定と補償を求めており、水俣病問題はなお解決をみないまま今日に至っている。大阪地方裁判所は去年9月、原告全員を水俣病と認めて国などに賠償を命じる判決を出し、新潟地裁も今年4月に阿賀野川流域の原告の半数以上を水俣病と認める判決を言い渡した。一方、熊本地裁は3月、一部の原告を水俣病と認めたものの、損害賠償を求めることができる期間を過ぎているとして原告側の訴えを退けるなど、問題の全面的な解決には至っていない。 そんな中、5月に伊藤信太郎環境大臣が患者らと意見交換をした際に、3分を過ぎた患者の発言が環境省の事務方によって遮られる出来事があった。これまでの経緯を考えると、住民の不安や困難に寄り添った丁寧な対応がされなかったことは誠に残念であった。