ソ連兵にだまされた。連行された収容所はマイナス40度の世界。死体を埋める墓穴を掘ろうにも、凍土は硬く1センチも削れなかった【証言 語り継ぐ戦争】
■大久保利成さん(99)鹿児島県伊佐市大口里 【写真】平壌歩兵第44部隊に入隊した19歳の大久保利成さん(右)。左は戦友=1945年1月1日
1945(昭和20)年9月1日、平壌の演習場に全員が集められた。10日ぐらいすると、周囲の丘にソ連兵の歩哨が見え、捕虜になったと実感した。10月初め、日本海に面した元山港捕虜収容所に移動した。 11月中旬にソ連兵通訳から「夜になったら船で日本に帰国させる」との説明を受けた。出港後、街の明かりが進行方向の左側に見えた。日本に行くのなら右側に見えるはずなので、だまされたと悟った。 今度は「ウラジオストク港に荷物を陸揚げしてから帰国させる」と説明が変わった。しかし、もう誰もその言葉を信用する人はいなかった。 ウラジオストク港は氷結しており、砕氷船が砕いた後を通って12月に入り、ナホトカ港に着いた。上陸後、20~30センチ雪が積もった山を尾根伝いに移動。日本人が「地獄谷」と名付けたへき地に収容された。「集結させて爆弾で殺される」とのうわさも飛び交った。 そこから鉄道などで移動し、沿海地方のアルチョム地区カメノシカ収容所に到着した。46年元旦のことで、名も知らぬ高い山から昇る初日の出を見ながらの入所だった。
収容所には約千人おり、長屋のように一部屋に百人ずつ暮らしていた。真ん中の通路を挟んだ両側に丸太の二段ベッドがあった。冬の間はシャワーや入浴は当然なかった。入所から半年は着の身着のままで洗濯や入浴は一度もしなかった。 夜は氷点下40度にもなった。細い木を編み、草を詰めただけの壁と、薄いシートの屋根でできたあばら屋では耐えきれず、毛布をかぶってしのいでいた。 朝には寝息が凍って厚さ10センチの霜となり、屋根に張り付いていた。昼、霜が溶けて敷きっぱなしの毛布に落ち、夜に作業から帰ると、カチコチに凍っていた。それからはみんな、毛布をたたんでから作業に出るようになった。 2月ごろ、大雪でトロッコが止まって食料が運べず、1週間塩水だけでしのいだ。復旧後にパンが届いて満腹になったが、飢餓の恐怖から、さらに詰め込んでおなかを壊す人が続出。下痢便から伝染病が広がり、死者が激増した。医務室に裸にされた死体が山のように積まれたため、墓穴掘りも業務に加わった。
30人の班をつくり、3交代で掘った。凍土はつるはしやスコップでは1センチも削れない。枯れ木を燃やして溶かし、深さ50~60センチの穴を掘って死体を詰めて入れた。ただ、掘っても掘っても追いつかないほど死んだ。伝染病のせいだが、最初の冬だったので、寒さにも慣れていなかったこともあるだろう。 日本に帰る夢も果たせずに、故郷のことを思いながら亡くなった彼らに、墓標も何も立てられなかった。「明日はわが身。どうなるか分からない。何としても生き延びなければ」と思っていた。 (2024年8月8日付紙面掲載「平壌歩兵部隊、抑留、引き揚げ㊥」より)
南日本新聞 | 鹿児島
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