香港から船で来日した14歳の少年は「味噌ラーメン」に衝撃を受けた
米トラベルメディア「アトラス・オブスキュラ」の記事「中華料理はいかにして世界を魅了してきたのか」(2023年4月にクーリエ・ジャポン掲載)で取り上げられた、中国系カナダ人の映像作家チョック・クワン(関卓中)による著作の邦訳『地球上の中華料理店をめぐる冒険』が出版された。 【動画】チョック・クワン監督が地球上の中華料理店を巡って撮ったドキュメンタリーシリーズ『Chinese Restaurants』 多感な時期を日本で過ごし、1980年代に日本で働いていたこともあるクワンがこの日本版に寄せて、日本にある中華料理店の変遷を個人史と共にたどる──。 ※本記事は、関卓中『地球上の中華料理店をめぐる冒険』の抜粋です。 これは私の「東京物語」である。 日本という国を初めて実際に目にしたのは、横浜港に入っていく客船の上からだった。時は1965年8月。1年前から東京に赴任していた父と合流するために、私は母、妹とともに香港を離れ、4日間の船旅の末に日本にやってきたのだった。前年に東京オリンピックが開催され、父は体操競技を観戦したと興奮ぎみに語っていた。 私たちは、4日前の真夜中に香港のビクトリアハーバーを出港した。港には、友人たちが見送りに来てくれた。当時、私は14歳。次に会えるのはいつになるのかわからない。夜の闇に消えゆく街の灯を見ていると、早くも友達と会えなくなる寂しさが込み上げてきた。 移住はこれが初めてではない。生まれは香港だが、生後10ヵ月にして祖母の腕に抱かれてプロペラ機でシンガポールに移った。12年後には、貿易会社に勤めていた父が香港に呼び戻されたため、今度はジェット機に乗って一家で香港に帰ったのだ。 そして今度は東京である。 だから日本への上陸は不安でいっぱいだった。言葉も文化もわからない。おまけに友達も親族もいない。そんな未知の国にやってきて、インターナショナルスクールに放り込まれたのである。どんな未来が待ち受けているのか見当もつかなかった。
初めての「中華料理」
日本での記念すべき最初の食事は、横浜の中華街にある「謝甜記」という店だった。広東粥(干し貝柱などの出汁でとろみがつくまでじっくり煮込んだ広東式のお粥)が恋しくなるたびに父が東京から車を飛ばして、月に2、3回は通っているという店だ。 当時、このような料理を出す店はここしかなかった。私にしてみれば、まだ「故郷」とは呼べない国で出会った心安らぐ家庭の味だった。 その日の夕方には、新橋に近い下町風の地域に父が借りておいたアパートに荷物を運び込んだ。一段落したところで、わが家から2つ先の角にある食堂に出かけ、最初の夕食を取ることになった。 青地に白い文字で「中華料理」と書かれた暖簾をくぐって店に入った。 こぢんまりとした店内には、木製の長方形のテーブルが6つ。4、5人の客が座れるくらいのカウンターもある。カウンターの中は厨房になっていて、煮えたぎる出汁の入った寸胴鍋の横では、料理人が1人で汁入りの麺を作っている。 だが、中国料理レストランに付きものの円卓が見当たらない。後で気づいたのだが、どうやらこれは寿司屋と同じ形式だったのだ。そして、これこそが全国に普及していた日本式の中華料理店の典型的な姿だったのである。 壁には、日本語の文字に漢字が混じったメニューが貼ってある。餃子、ラーメン、焼きそば、焼き飯(わかる漢字から考えて炒飯なのだろう)、唐揚げ、酢豚とあり、中国料理のようだ(訳注:当時は炒飯を焼き飯と表記する店も少なくなかった)。 「日本の中国料理がどんなものか見せてあげるよ」 そう言いながら父は、なじみのある料理をいくつか注文した。 料理が運ばれてきたのだが、私が想像していたものとはずいぶん違う見た目だ。 炒飯は、まるでお椀を逆さまにしたような半球状になって皿に盛られているではないか。なるほど、日本のコメは短粒米で、弾力とわずかな粘りがあるから、こんなことが可能なのだ。 酢豚は、酸味としてトマトペーストの代わりに酢が使われていた。 よくわからなかったのは、焼きそばだ。細麺をウスターソースのような甘辛いソースで炒めたもので、紅生姜という赤い生姜の漬物がのっていた。 今度は味噌ラーメンなるものが、やってきた。香港で一般的な麺よりも太麺でちぢれも強い。だが、何よりも驚いたのは、濃い色のスープだ。日本の味噌と豆板醤で作られているという。 しかも、汁入り麺では見たことのない具が麺の上にのっている。半分に切った半熟煮卵と、「チャーシュー」と呼ばれる薄切り肉も数枚ある。中国料理の叉焼のように見えるし、名前も似ているが、和製チャーシューは豚ロース肉を醤油ベースのたれで煮込んだもので、褐色の肉には脂が滴っている。
Cheuk Kwan