野口英世から北里柴三郎へ:新紙幣発行をめぐるドラマ【「新型コロナウイルス学者」の平凡な日常】
■野口と北里(と筆者)の共通点 そしてこのふたりには、「微生物学者」ということ以外にもうひとつの共通点がある。そしてそこにはなんと、僭越ながら、筆者の私も含まれる(!)。それは、野口も北里も、私が現在所属している、東京大学医科学研究所(医科研)に在籍していた、ということだ。 しかしながら、この表現ではちょっとした語弊が生じる登場人物がひとりいる。それは北里である。北里は、医科研に「在籍」していたのではない。正しくは北里は、医科研の「設立」に貢献したひとである。 「破傷風の治療法につながる技術の開発」というノーベル賞級の偉業をドイツで成し遂げた北里はその後、欧米の研究所からあまたの誘いを受けた。しかし北里はそれらをすべて断り、伝染病の脅威から日本国民を救うべく、1892年に帰国する。 しかし哀しきかな、当時の日本には、満足な研究環境がなかったのである。それを憂い、北里を支援したのが、慶應義塾の創設者であり、一万円札の「顔」でもあった福沢諭吉である。福沢は1892年、北里のために、現在の東京・芝公園の中に、「私立伝染病研究所」を設立。北里はその初代所長となった。それは福沢が57歳、北里が40歳のときのことであった。そして1898年から99年にかけて、22歳の野口英世は、この研究所に在籍していたのである。 1899年、国から支援を受ける形で、この研究所は内務省管轄の「国立伝染病研究所」に改組される。その後、所員が増えて手狭になったことを受けて、1906年、現在の所在地である東京・白金台に移転される。 そして1914年、「国立伝染病研究所」は、北里所長に相談することなく、内務省から文部省に突如移管され、東京帝国大学(つまり、現在の東京大学)に合併されることになる。それに猛反対した北里は、所長を辞任。現在の「プラチナ通り」を下ったところのエリア、東京・白金に、「北里研究所」を新たに設立して「独立」する。