天下も狙えた! 秀吉も恐れた文武両道のオールマイティ武将・蒲生氏郷【知っているようで知らない戦国武将】
信長・秀吉・家康・信玄・謙信など英雄ともいわれる戦国武将はよく知られているが、彼ら英雄たちに絡んで戦国時代を彩った武将たちは、どういう人物でどういう生き方をしたのかは意外に知られていない。知っているようで意外に知られていない「あの」戦国武将たちを紹介しよう。今回は文武両道の武将・蒲生氏郷(がもう・うじさと)を紹介する。 ■細川忠興が断ったポジションについた蒲生氏郷 天正18年(1590)7月、小田原の北条氏を滅ぼし、天下統一を果たした豊臣秀吉は強敵と目していた徳川家康を関東に追いやることに成功した。 さらに奥羽の覇者・伊達政宗が家康と手を組んだり、陰謀を巡らせることがないように、いくつかの処置をした。その1つが、政宗から取り上げた会津を任せ、家康・政宗を押さえる役割を誰にさせるか、であった。 秀吉は、最初に細川忠興を起用しようとしたが、忠興が「とても自分の器量ではそんな大任は果たせない」と秀吉の機嫌を損ねないようにやんわりと辞退した。そこで白羽の矢が立ったのが蒲生氏郷であった。 氏郷がもらった会津・黒川42万石ばかりか、周辺の所領を併せて92万石は、家康の関東8州、前田利家の加賀100万石などに続く大領であった。この時、氏郷は伊勢・松阪12万石の大名、左近衛少将である。 剛勇の誉れ高い武将として誰からも一目置かれていたが、その1つには織田信長の末娘を正妻としていたことも他からの畏敬の念にはあった。秀吉もその1人であった。「だからこそ」と秀吉は、氏郷を起用した理由を言う。 しかし氏郷も、忠興同様に拒否しようとしたが、秀吉は許さなかった。これは江戸時代の逸話集『常山紀談』に書かれているエピソードだが、この時に氏郷は「たとえ大領であっても奥羽のような遠国にあったら本望を遂げることは出来ない。小身でも都に近ければ1度くらいは天下を窺えることもあろうに」と不覚の涙を流した、とある。事実かどうか不明ながら、氏郷が「天下」を望む器であったことを示す逸話ではあろう。 ■秀吉も恐れた器の持ち主 氏郷は、奥州藤原氏の血統を持つ近江・蒲生家に生まれた。13歳の頃に主家であった六角氏が滅ぼされ蒲生家は信長に仕えた。氏郷は、人質として信長の下で育った。その後、度々合戦で手柄を立てた氏郷は信長の末娘を娶って蒲生家に戻り、1武将としてもメキメキ頭角を現した。 姉川合戦・小谷城合戦・長島一向一揆・長篠合戦など信長の戦いで武功を挙げた。氏郷の兜の前立ては「鯰の尾」であり、その鱠尾の兜が輝くところは、常に氏郷が先陣を切っている場所、と言われるほどであった。 本能寺の変以後は秀吉に仕え、小牧・長久手合戦や九州征伐、小田原合戦で武功を挙げた。その軍律は厳しかったが、情には厚く「利休7哲」の1人であったように、文化的・知的素養もあり、文武両道の武将として尊敬を集めた。高山右近とも親しく、キリスト教にも寛大で右近から「レオン」という洗礼名も与えられたほどであった。 会津移封後は、黒川の地を現在まで続く「若松」と改め、鶴ヶ城を築くなど、その後の会津の基盤を作り上げた。しかし、隣国の政宗とは度々対立しながらも奥州統治に全力を尽くした。政宗が陰で操ったとされる葛西・大崎一揆を鎮定し、九戸政実の乱も鎮圧した。 文禄2年(1593)、秀吉の朝鮮出兵の最中、肥前名護屋に滞陣中に氏郷は何度か下血した。直腸癌(らしい)の発病であった。そして2年後の文禄4年、40歳の若さで亡くなった。 辞世の「限りあれば吹かねど花は散るものを心みじかき治の山かぜ」が、氏郷は秀吉の手の者に毒殺された、と臆測を生んだ。真実は、異なるがそうした臆測を生むほど氏郷は、秀吉も恐れる器量人であったのである。
江宮 隆之