「僧侶だったから生きて帰れた」と語った父…斬り込み隊の上官が命令「最後までお経を上げてくれ」
豊の国宇佐市塾塾頭 平田崇英さん
太平洋戦争中に米軍機が撮影した全国の空襲映像を次々と発掘し、注目される大分県宇佐市の市民団体「豊の国宇佐市塾」。塾頭の平田崇英さん(75)は、かつて特攻隊が配置され、多くの人が戦死した同市から、平和への思いを伝え続ける。 【写真】宇佐海軍航空隊の掩体壕前で思いを語る平田さん
1948年12月、大分県八幡村(現・宇佐市)で、父・崇徳さん(2001年に死去)、母・昭代さん(今年4月に死去)の長男として生まれた。生家は室町時代の1471年に創建された教覚寺で、先祖代々住職を務めてきた。
「僧侶だったから、生きて帰れた」
旧陸軍2等兵としてインドネシアへ出征した父は、戦地のことはほとんど語らなかったが、この言葉だけは鮮明に覚えている。敵陣への斬り込み隊が組織された際、上官から「お前は一番最後に行け。それまで戦死者にお経を上げてくれ」と命じられたという。戦闘は、順番が巡ってくる前に終わっていた。
父は叙勲や軍関係の記念品を辞退していた。「仲間たちは死んだのに、生きて帰った自分がもらうわけにはいかないと考えていたのでしょう」。戦争が一人の人間の心に、暗い影を落とし続けることを思った。
1967年に京都の龍谷大に進学し、本格的に仏教を学んだ。在学中、ベトナム戦争に反対する学園紛争の嵐が吹き荒れていたが、参加することはなかった。きちんと卒業して寺を継がないといけないとの思いが強かったこともあるが、「戦争と平和の問題は一生をかけて考えるものではないのか。遠い国のことで運動しても、長続きしないだろう」と考えていた。
周囲の学生たちをどこか冷めた目で見ていたが、反戦運動を背景に、大ヒットしたフォークソング「戦争を知らない子供たち」を聞いた時の衝撃は、今も残っている。
「私は戦争を知らない子供だったのだと、あらためて突きつけられた」
72年に帰郷すると、寺が経営する保育園に勤務した。事務作業が主な仕事だったが、「育児そのものを勉強したい」と、79年に保育士の試験を受けた。男性合格者は2人。大分県の男性保育士第1号となった。