『光る君へ』諸説ある紫式部の没年、最終回に向けてドラマではどんな「旅」が待ち受けているのか
『源氏物語』の作者、紫式部を主人公にした『光る君へ』。NHK大河ドラマでは、初めて平安中期の貴族社会を舞台に選び、注目されている。第45回「はばたき」では、まひろ(紫式部)が娘・賢子から「宮仕えをしたい」と相談される。自分に代わって太皇太后になった彰子に仕えることを提案。自身は旅に出る決意をするが……。『偉人名言迷言事典』など紫式部を取り上げた著作もある、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部) 【写真】果たしてドラマでの2人はどんな結末を迎えるのか? ■ 四納言も話し合った「望月の歌」の解釈に正解はない? 藤原道長が残した有名な和歌「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」を『光る君へ』ではどう解釈するのだろうか――。 当連載(「『光る君へ』藤原道長が成し遂げた“一家立三后”の天下、有名な「望月の歌」は本当に傲慢さを表した歌だったのか?」参照)でそんなふうに書いたが、前回放送の終盤で道長はこの望月の歌を皆の前で披露した。 そして、今回の放送は和歌の解釈について、道長を支えた「四納言」で話し合うシーンから始まった。 口火を切ったのは藤原斉信(ただのぶ)。「昨夜の道長の歌だが……あれは何だったんだ?」と疑問を口にしたところ、源俊賢(としかた)が「栄華を極めた今を歌い上げておられるのでありましょう。何もかも思いのままであると」と後世で広く伝えられている解釈を述べる。 それを受けて、藤原公任(きんとう)は「今宵は誠によい夜であるなあ、くらいの軽い気持ちではないのか」と自説を述べた。その理由として「道長は皆の前でおごった歌を披露するような人となりではない」とも言っている。今回の大河ドラマ『光る君へ』がこれまでの道長像を覆すべく、果敢にチャンレンジしていることを改めて実感した。 藤原行成(ゆきなり)は「私もそう思います」と同意しながらも、前回放送後にSNSでも話題に上ったような、さらに一歩進んだ解釈を打ち出した。 「月は后を表しますゆえ、3人の后は望月のように欠けていない、良い夜だということだと思いました」 3人の解釈を聞いて斉信は「そうかなあ」とまだ納得のいかない様子だった。 『光る君へ』での望月の歌への解釈に注目が集まる中で、「実は当時から見解が分かれていた」という観点は実に面白い。さらに、道長を支えた四納言にそれを語らせるのも、自然な流れだったように思う。道長の「望月の歌」を巡るさまざまな解釈を、視聴者に提示するシナリオには脱帽である。