映画『デデデデ』の結末が示した“日常の強靭さ” 1人の命と世界を天秤にかける倫理とは
1人の命と世界を天秤にかける倫理
本作には、平行世界の概念が含まれる。引っ込み思案だったおんたんは、親友の門出が「ひとつの正しさ」に囚われ暴走した結果、自殺した世界から、門出が自殺しない世界へとシフトした。侵略者いわく、その決断が「世界を滅ぼすことにつながるかもしれない」が、それでもおんたんは門出に会える世界を望んだという。 世界が滅ぶことと、おんたんのシフトの因果関係ははっきりと描かれるわけではない。ここは観客が何を「信じたいか」に委ねられているようにも見える。「人は信じたいものしか信じない」時代の作品らしい振舞いかもしれない。とりあえず、おんたんの決断は世界と引き換えに自分の小さな友情を優先しているかに見える。 後章はそんな不確かさに溢れている。侵略者との融和を掲げるSHIPの正義も小比類巻の正義もたやすく相対化される。だからといって政府の公式発表も正しくない。何が正しいかわからないことがことさらに強調され続ける中、一つだけ確かなこととして、おんたんと門出の友情が「絶対」と描かれる。 1人の少女の自殺は世界の危機と比べてささいなことなのかもしれない。全体は常に優先される。危機がせまれば世の中は必ず全体主義的に傾いていく。そういう時代に、個人の命の大切さを伝えるためには、むしろ、世界と天秤にかけるくらいしないといけないのかもしれない。 自殺とは社会による他殺である。社会にある理不尽が少しずつからみあって、ふとした時に自殺という結果が出力されてしまうのだとしたら、1人の少女の自殺の責任を世界に取らせるということに、多少の合理性はあるのではないかとも少し思ったりもするのだ。そういう視点を失うと、自殺もただの自己責任にされてしまう。1人の命と世界を天秤にかけるのを身勝手だと断ずる前に、社会や世界の総体が1人の少女の自殺にどこかでつながっているかもしれないと考える感受性も重要だと筆者は思う。世界と個人を天秤にかける過剰な物語設定は、そういう全体主義的なものへの抵抗にもなり得るのではないか。 そもそも、世界は個人的なつながりの総体だ。まずは目の前の人を大切にすることを忘れては何も上手くいかないだろう。皆が目の前の人を大切にする連鎖こそが世の中を良くする力なのだと思う。だからこそ、本作は友情だけが絶対と描くのではないだろうか。
杉本穂高