映画『デデデデ』の結末が示した“日常の強靭さ” 1人の命と世界を天秤にかける倫理とは
日常はなぜ強靭なのか
本作の後章では、徐々に蓄積されていく社会の痛みと不安が急加速で増加していく様が描かれる。母艦はエネルギー切れを起こしそうで墜落寸前、爆発すれば地球を巻き込む規模の被害を出しかねない、小比類巻は侵略者たちを狩るだけでなく、政府中枢やメディアをも乗っ取ろうと画策する。侵略者たちとの融和を平和的に訴える団体SHIPも過激な行動に出ようとする。そして、政府は、母艦の爆発に備えて密かに脱出装置を開発している。 こうした「大きな物語」が加速していく一方で、おんたんや門出の日常である「小さな物語」はペースを乱さずに平和に進行していくのが後章の大きな特徴だ。そして、この2つは必ずしも重なりあわない。とりわけ、クライマックスの東京が壊滅するシークエンスではおんたんと門出はサークルの合宿中で、その渦中にいない。2人に代わり、その渦中に関わることになるのは、人間と融合した侵略者である大場だ。おんたんが別の平行世界からやってきたシフターであることや母艦の爆発まで時間がないことを知り、決死の覚悟で母艦へと飛び込む彼の行動はヒロイズムに満ちている。ここは、原作からの改変ポイントであるが、彼の行動はある程度実を結び、世界への被害がわずかに抑えられる。 しかし、大場のヒロイズム自体は映画の主題とはならないのも本作の特徴と言える。この作品はシンプルなヒロイズムから遠く離れている。それよりも、大場が無事におんたんの元に帰ってきて、おんたんが「おかえり」と言えた時の喜びにこそ、より強いカタルシスがある。「おかえり」という日常用語を言う相手がいることの尊さがここにはある。 日常はじわじわと訪れる危機に対して人を鈍感にさせることもある。一方でかけがえのないものでもある。人がすぐに日常を取り戻そうとするのは、実際にはそれがかけがえのないものであり、それ自体が人の生きる力でもあるのではないか。 原作とは異なり、日常が続いていきそうな気配で映画は終わる。しかし、東京は壊滅しただろう。その意味で日本は半壊した状態となった。その半壊した世界でも日常は続いていく。本作を終末ものと呼ぶ人もいるが、むしろ筆者としては終末ものというより、日常の強靭さを再確認する物語として描かれているように見える。 実際に、この10数年日本で生きてきて実感するのは、世界は不確かなことだらけだが、日常を続ける人の力の強靭さだけは確かなものだということだ。その日常を彩るものが友情だ。それだけが絶対。日常の強靭さは喉元過ぎれば熱さを忘れるようなやっかいさも含みながら、人の生きる強さの証でもあるではないか。