革命で横浜市とほぼ同じ領地を失った貴族の逆転人生……デヴォンシャ公爵家の奇跡の再興
「清教徒革命」のさなかに亡命
二人が華燭の典を挙げた当時のイングランドは、実は内乱寸前の状況にあった。ときの国王チャールズ1世が11年にわたり議会を開かずに、人々から不当な税金を取り立て、はむかうものは不当に逮捕・投獄されていた。国王と議会の対立はついに頂点に達して、ここに「清教徒ピューリタン革命(1642~49年)」とも呼ばれる内乱へと発展した。 デヴォンシャ伯爵家は国王派に属し、3代伯の弟チャールズは内乱のさなかに戦死している。兄の伯爵は戦闘に加わることはなく、議会派の優位が確定する頃までにはヨーロッパ大陸へと亡命してしまった。チャッツワースも所領もすべて議会派に没収された。 国王の首が切られ、議会派により共和政が始まったものの、それも11年で幕を閉じた。1660年に王政復古となり、伯爵は家族とともに帰国した。これまた女傑の母クリスチャンのおかげで伯爵家の財産はすべて取り戻された。彼女は同じく亡命中だったチャールズ2世(チャールズ1世の長子)に資金を送り、支援を続けていたのだ。3代伯は特に政治活動は活発におこなわず、長年にわたり家庭教師を務めたホッブズを屋敷(ハードウィック・ホール)で看取り、その5年後に彼自身も67年の生涯を閉じることとなった。
「名誉革命」で公爵家へ
後継者の4代伯ウィリアム(1641~1707)もまた、幼少期からホッブズに学んでいる。王政復古とともに庶民院議員に選ばれ、議会活動に邁進した。国政に関心がなかった父とは対照的に、「キャヴェンディッシュ卿(Lord Cavendish)」の名で政治活動を展開した彼は、議会政治のなかで頭角を現していく。イングランド国教会に属していた4代伯は、カトリック教徒であることを公言していた国王の弟ヨーク公爵(のちのジェームズ2世)が王位を継承することに反対を示していた。父が亡くなり第4代伯爵を襲爵(しゅうしゃく)した翌年(1685年)、ジェームズ2世が即位し、王は次第に側近をカトリック教徒で固めていく野心をあらわにしていった。 4代伯は同じくカトリック王の即位に否定的だった、国王の女婿で甥にもあたるオランダ総督のウィレムと連絡を密にした。1688年6月、ジェームズ2世に男子が誕生し、この子(同じくカトリック教徒)が王位を引き継ぐ可能性が高まるや、他の有力者6名と1緒にウィレムをイングランドに招請する。のちに「不滅の7人」と呼ばれる1角を4代伯は占めていたのである。 これを受けて同年11月にウィレムはオランダ軍とともに上陸する。イングランドでは大半の貴族たちがジェームズ2世に反旗を翻しており、王は戦わずしてフランスへと亡命した。世に言う「名誉革命(1688~89年)」の成功である。 ここにウィレムはウィリアム3世として妻メアリ2世(ジェームズ2世の長女)と共同統治をおこなうことになった。2人を支える王室家政長官には4代伯が就任した。これらの功績から、1694年に伯爵はついに「初代デヴォンシャ公爵」へと陞爵(しょうしゃく)したのである。公爵位と同時に与えられた爵位により、これ以後、公爵家の長子には「ハーティントン侯爵(Marquess of Hartington)」という儀礼上の爵位を名乗れる権利が認められた。 イングランドに立憲君主制を確立した名誉革命の功労者であったにもかかわらず、これ以降公爵は政治にはあまり深入りせず、あくまでも宮廷の運営のみに専心していく。それはまさに公爵家の家訓である「慎重さによって身を守れ(CAVENDO TUTUS)」を実践してみせたかのようであった。こうしてイングランドで上から8番目の家格となる「デヴォンシャ公爵家」の歴史が始まることとなった。 君塚直隆 1967年東京都生まれ。立教大学文学部史学科卒業。英国オックスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ留学。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授などを経て、関東学院大学国際文化学部教授。専攻はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。著書に『立憲君主制の現在』(2018年サントリー学芸賞受賞)、『悪党たちの大英帝国』、『ヴィクトリア女王』、『エリザベス女王』、『物語 イギリスの歴史』他多数。 協力:新潮社 新潮社 Book Bang編集部 新潮社
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