「相場は神聖なもの」だれもが知識を得て、大いにやるべき 田附政次郎(上)
江戸時代から綿などの集散地だった大阪東区北久太郎町に明治28年、三品(さんぴん)取引所が誕生しました。当初は綿糸、木綿、綿花の三品を取り扱っていたことからその名がつきました。大阪繊維取引所に名を変えたのち、綿以外も取り扱う中部大阪商品取引所になり、現在は姿を消しました。 その三品市場で活躍をした田附政次郎(たづけまさじろう)です。世の実業家は「相場師」と呼ばれることを嫌っていたのが普通でしたが、田附は自らを堂々と「相場師」であると公言し、世の人々に相場の素晴らしさを説きました。その堂々たる相場師人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
“品格”のあるマーケット、大阪・船場の三品市場
明治後半から昭和初期にかけて近代大阪の投機市場は株の北浜、コメの堂島、糸の三品(船場)の3つが競い合っていた。その中で三品市場は北浜や堂島とはひと色違っていた。マスコミの三品評に「ひとり三品市場のみは、一攫千金の成功を喜ぶ者の少なければ、また一擲千金の憂き目を味わうばか者は稀で、はなはだもって相場市場らしくない」とある。三品の取引員は45名に限られているうえに「取引員の大部分が相当の恒産を持っており、北浜や堂島の取引員よりもずっとお人柄であること、そしてお客さんが玄人で取引員が素人なことである」とも指摘している。 こう評するのは大阪朝日新聞だが、一般に三品市場は“品格”のあるマーケットとみられていた。恒産なければ恒心なし、という。資産的に豊かな人が集まる三品市場はお客さんの注文の反対売買をするような取引員はいなかったようだ。 大阪三品取引所が開設されたのは1893(明治26)年で、1984(昭和59)年、大阪化繊取引所と合併、大阪繊維取引所となり「三品」の名が消えるまでの90年間で一番知られた相場師は田附政次郎である。糸へん黄金期の大正時代、岩惣こと岩田惣三郎とその息子岩田宗次郎とを相手に丁々発止の戦いは名勝負として今日に語り継がれる。