小学校長から実業界へ 第4代東米理事長就任、異色の投資家 片野重久(上)
教育者から貸金業者へ、驚きの転身
森有礼に殉じて文部省を辞した片野が山師で東米の大株主である武田氏に仕え、投機の才を発揮し、米穀界の頂点に立つ道筋が開けてくる。日本橋蛎殻町へ出入りするうちに蛎殻町のドン、米倉一平や松沢与七らの知遇を得るようになる。と同時に少しでもカネがあると合百(賭博の一種)に手を出し、もうけを少しずつためていく。 このような片野の転身について地元紙の秋田魁新報は「神聖なる教育者から汚濁せる貸金業者となる」などと冷ややかである。蓄財術にたけた片野を巡っては仲間うちから「倹約を通り過ごしてケチン坊」と不評を買うが、先輩たちからは「信用できる男」と評価が定まっていく。「金融王」安田善次郎からも重宝がられる。再び「万朝報」による。 「金も大分できたため相場師となり常に紋付き羽織はかまで取引所に出入りし、異彩を放つうち、漸次盛運に向かい、明治28年(1895年)ころには米穀取引所の監査役となり、同36年(1903年)武田、松沢、米倉氏らが片野氏を理事長に推選……」 実は、明治34年(1901年)4月、第3代理事長の益田克徳(益田孝の実弟)が急逝する。当時の東米理事長の座は財界の有力者が座ると相場が決まっていて、後任理事長人事を巡っては激しい駆け引きがあったといわれる。大株主でないと取引所運営上、重石がきかないので、武田忠臣の持株をそっくり譲り受け、ライバルを蹴落として第4代理事長に就任した。 「平素はすこぶる精勤家にて決断力に富み、事務の整理については、敏腕の聞こえあり。また知人に対して親切にて利益ありと認めた場合は他人に株を買わせ、もしその見込みが外れて損失を及ぼすようなことがあれば、苦心して他にもうけ口を世話してやり、これで埋め合わせるのが常なりき」(万朝報) 他人の相場の穴埋めまでやる奇特な一面がうかがえる。片野の世話好きは定評があり、在京秋田県人会の幹事役を長く務めていたことでも明白である。 だが、理事長在任中、報道機関と親しく接することは好まなかった。三申小泉策太郎が蛎殻町で週刊「経済新聞」を創刊したとき、すぐ片野のもとに取材記者を差し向け、人となりを写真入りで第1面で報道しようとした。ところが、片野は首を横に振るばかりだった。 「私は無能な男で、まだ新聞紙上に紹介されるほどの閲歴はありませんから」といって辞退するのだった。=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> 片野重久(1851-1907)の横顔 1851(喜永4)年秋田県横手で佐竹藩の士族に生まれた。片野家は佐竹氏が常陸から秋田へ国替えになった時、主家とともに移住した旧家。重久は藩校に学んで和漢の学を修め、のち洋学の知識も身につけ、教育者となる。小学校の校長を務め、自由民権運動に投じる。1881(明治14)年上京、森有礼の知遇を得で文部省視学官となるが、1889(同22)年森が刺客にたおれると決然として官界を去り、実業界に入る。1895(同28)年東京米穀取引所監査役となり、1901(同34)年第3代理事長益田克徳が急逝すると、後を継いで第4代理事長に就任。1904(同37)年京浜電鉄取締役を兼ね、のち社長の雨宮敬次郎に抜てきされ常務に昇進。1907(同40)年の株価暴落で自殺。