毛利家3本の矢のひとり、豊臣政権の大老格となり日本のトップクラスまで駆け上がった智将【小早川隆景】
毛利家には「3本の矢の教え」が残されている。毛利元就が3人の息子(後の、毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に1本ずつ矢を渡して折るように命じた。3人ともに簡単に矢を折った。元就は、今度は3本の矢を渡して「折ってみろ」という。3人は、これに挑戦したが、いずれも折れことができずに失敗した。元就は「矢は、1本では簡単に折れるが、3本では容易に折れない。つまり、これからも3人で力を合わせて毛利家の発展と安泰に尽くせ」と言いたかったのが「3本の矢の教え」である。 3兄弟の中で、長男・隆元は本家の家督を継いだが、早世することになる(その後を嫡男・輝元が継ぐ)。そして、2男・元春は、安芸国大朝本荘(広島県山県郡)を中心にして山陰一帯に勢力を持つ吉川氏の養子となった。これより先に3男・隆景は12歳で、安芸国沼田荘(広島県三原市)の豪族・小早川氏の養子になっていた。元就は、毛利氏をこの小早川・吉川という「両川」で支え合うという形は、将来の毛利家の繁栄にも繋がると考えていた。というのも、この時点での毛利氏は、尼子氏・大内氏という2大勢力の狭間にあり、同様に「両川」も狭間にあって混迷を深めていたのだった。元就は、既にこの時に先手を打っておくという先見の明を見せた。この「先見の明」は、隆景の大きな資質の1つになった。 小早川家は、瀬戸内海を睨むほどではないものの、水軍を持っていた。これも元就には魅力であった。隆景と小早川水軍は、山陽地域の攻略の中心になった。 天文24年(1555)10月の「厳島合戦」は、大内家を乗っ取る形で下剋上に成功した陶晴賢との、瀬戸内海の制海権を巡る争いである。隆景は、村上水軍を参戦させ、海上から厳島に進撃して、上陸していた毛利本隊と呼応して陶軍を挟み打ちにして勝利した。これは、元就と毛利氏の出世合戦ともいわれる大軍に寡兵で勝利した戦いであった。 さらに元就は、永禄5~6年(1562~63)の尼子氏との月山・戸田城の合戦でも勝利し、中国の覇者となった。この毛利軍を支えたのが、元春・隆景の「両川」である。 元就の死後、秀吉の中国攻めに苦労した毛利一族だったが、本能寺の変の直後に秀吉と和議を結んだ。この時に、秀吉を追撃する、とする元春を始めとする一族に対して、隆景はそれを押し止め「和議を守り、秀吉を支援する」と主張した。元就の「先見の明」が生かされた瞬間であった。こうしたことが、秀吉の天下を支える一因となり、隆景は毛利一族を代表するような形で、秀吉政権では「5大老」の1人になる。しかし吉川元春は、秀吉批判の先鋒であり続け、これが後の関ヶ原合戦で元春の嫡男・吉川広家による西軍裏切りに繋がることになる。 隆景は、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)でも碧蹄館の戦いなどで日本軍を勝利に導く武功を挙げている。隆景は、勇猛さを持ちながら、一方では周辺の状況を見極める周到さも兼ね備えた知謀の将であった。 秀吉が毛利家に、自分の一族の三好秀俊(後の小早川秀秋)を養子として入れようとした時に、隆景は自らの小早川家に受け入れる形で毛利家の純血を守った。宣教師ルイス・フロイスは『日本史』で「その深い思慮をもって平穏に国を治め、多年にわたり騒動も反乱もない国を作った」と隆景を褒めている。 隆景は慶長2年(1597)6月、65歳の見事な生涯を閉じた。
江宮 隆之