野球は「単なる遊び」…母の大反対のウラで野村克也が野球を続けた感動の理由
「このがらんどうの人生を、俺はいつまで生きるんだろう。俺はおまえのおかげで、悪くない人生だったよ...おまえは幸せだったか....?」 【漫画】「しすぎたらバカになるぞ」…性的虐待を受けた女性の「すべてが壊れた日」 生きている間に伝えたかった「ありがとう」をこの本で。名将・故野村克也さんが綴った、亡き妻・沙知代さんへの「愛惜の手記」。2人のかけがいのない思い出から「夫婦円満」の秘訣を紐解いていこう。 *本記事は『ありがとうを言えなくて』(野村克也著)を抜粋、編集したものです。 『ありがとうを言えなくて』連載第10回 『「才能の限界を感じた...」少年時代に、名将・野村克也が夢見た「意外すぎる職業」』より続く
母は野球をすることに「大反対」だった
中学二年生のときに野球部に入部したものの、当時の集合写真を見ると、私だけ短パンをはいている。やはり、ユニフォームを買ってくれとは言えなかった。試合のたびに、後輩からユニフォームとグラブを借りた。 ただ、野球は、最初から周囲を驚かせた。野球は遊びでかじった程度だったが、簡単に大きな当たりを打てるのだ。 周りの部員は「おまえ、うまいな」と感心していたが、むしろ、なぜ他のやつらはこんな簡単なことができないのか不思議でならなかったくらいだ。 私はすぐに「四番・捕手」として試合に出られるようになった。 高校時代、私は母に内緒で野球を続けた。母親は、私が野球をすることには大反対だった。単なる遊びにしか見えなかったのだろう。それよりも、早く手に職をつけ、堅実な社会人になって欲しかったのだと思う。 嘘はいつかばれる。三年生になったとき、母親に野球部に入部していることが露見し、辞めさせられそうになった。だが、私の実力を高く評価してくれていた野球部の部長が母をなだめてくれ、野球を続けることができた。 南海ホークスのテストに合格し、高校を出てプロ入りするときも、母親は大反対した。
「田舎者」が成功するわけない
「田舎者のあんたが、あんな華やかな世界で成功するわけないやろ」 親としては、当然の反応である。そのときも野球部部長が家まで来て、おふくろを説得してくれた。 「お母さん、せっかくのチャンスだからやらせてみましょう。三年やって芽が出なかったら、そのあとは私が責任を持って就職の世話をしますから」 そこで、ようやく母は「そこまで言っていただけるならお任せします」と折れたのだ。手前味噌で恐縮だが、日本のプロ野球界で、私ほど成り上がった選手はいないのではないか。 高校時代はまったくの無名だった。高校時代、私のもとにやってきたスカウトなど、一人もいない。練習試合の相手がたいしたことなかったとはいえ、相当な数のホームランを打っていた。だが、丹後地方の高校なんかにプロになれるような選手はいないと決めつけていたのだろう。 私は監督時代、スカウトの目など当てにならないと思っていたが、それは実体験に基づいているのだ。 マイナスと言ってもいい地点から出発しながらも、私は、プロでは一流と呼ばれる成績を残し、さらには監督として優勝も経験した。大逆転人生である。 それもこれも母親孝行したいがためだった。
野村 克也(野球解説者)