3A最多勝 村田の前にメジャーの壁
そんな中で例外は2人。2007年にパシフィックコースト・リーグで最多勝となったディッキーは1997年にプロデビュー。2001年にレンジャーズで昇格したが、なかなか安定した成績が残せない。2006年にナックルボーラーに転身すると、翌年になって結果が出た。そのとき31歳。その後、メジャーの先発ローテーションに定着し、37歳のときに20勝をマークし、サイ・ヤング賞まで獲ってしまったのだから、これは例外の中でも、例外と言えよう。 2011年にインターナショナル・リーグで最多勝を獲ったテヘランは当時20歳。その年、ブレーブスでも5試合登板しているが、本格デビューは2013年。以来、今年も含め、3年連続で二桁勝利を挙げている。その彼がなぜ2011年に昇格した時そのまま残らなかったかだが、まだ20歳と若く、もう少しマイナーで経験を積ませたいというチームの考えがあったよう。結果として最多勝となった。
さて、改めて表を見てみると、村田を除く全25選手のうち、最多勝を獲った後に一度でもメジャーのマウンドを踏んだのは20人と高確率だが、上で定着できたのは、ディッキーとテヘランの2人だけだ。 なぜマイナーで実績を残しながら、苦しむのか。実はある意味、予想された結果でもある。将来有望な投手をめぐっては、こんな事情がある。 例えば仮に、その選手が将来を嘱望されているのなら、その投手を守る意味でも、150イニング程度に投球回数が制限される。2011年にマリナーズのローテーションに入ることが確実だったマイケル・ピネダ(当時マリナーズ)は2010年、2Aと3Aで合わせて11勝を挙げたが、8月下旬、その年の投球回数 が139回1/3となると、ストップがかかった。登板過多を防ぐのと、翌年に疲労が残らないようにするための処置である。そうして制限がかかれば、自ずと勝ち星も頭打ちになる。 また、開幕から順調に白星を重ねていれば、メジャーで誰かが怪我をした時、あるいは調子の悪い投手が出たときに、上から声が掛かる。 やはり2010年の例で見ると、あの年、3Aのパシフィックコースト・リーグには、マディソン・バムガーナー(ジャイアンツ)、デレック・ホランド(レンジャーズ)、ジェフ・サマージア(ホワイトソックス)ら、現在の所属チームでエース格として活躍している投手がいた。 バムガーナーは、開幕から14試合に先発して7勝1敗という成績を残すと、その年の6月、ジャイアンツに昇格。ホランドも3Aで11試合に先発し、6勝2敗、防御率1.87という好成績だったが、シーズンの半分をレンジャーズで過ごしたため、勝ち星は伸びなかった。3Aで11勝をマークしたサマージアも同様で、ずっとマイナーにいれば十分に最多勝を獲れたかもしれないが、そうした投手をカブスがいつまでもマイナーに置いておくはずもなかった。