「独身が日中の帯番組を何年も担当できると思うな」上司の言葉にショックを受けて...真剣に考えたその先のこと【住吉美紀】
フリーアナウンサーの住吉美紀さんが50代の入り口に立って始めた、「暮らしと人生の棚おろし」を綴ります。 「なぜNHKを離れたか」。いまだによく聞かれる質問だ。自分の中で色々な理由が堆積しての決断は、少なくとも計画的なものではなかった。この連載で前述の通り、社会人になる前からトライアンドエラーを重ねて進んできた。絶対的な目標はなく、自分の中の「面白そう」「自分に合っている」という物差しを基準に進路を決めてきた。開拓者のように、前に道はなく、振り返ると自分の足跡という道、つまり、キャリアができていた。 30代前半だったと思う。年一回の人事考課面接で、当時の上司からおもむろに言われた。「で、住吉さんは、いつまでNHKにいるんですか?」 あまりに脈絡なく突然聞かれたので、私はびっくりしてしまって返す言葉が見つからず、「え? やめる予定はないんですが……」と言うのが精一杯だった。 しかしその夜、あの言葉はどういう意味だったのだろう、と考え始めたら眠れなくなってしまった。もうやめた方がいいってことだろうか。私はNHKに不要だというメッセージだろうか。得手・不得手のバランスが悪い不器用な職員なりにも、精一杯働いているつもりだった。考えるほどに、ショックと悲しみと悔しさが膨らみ、涙が止まらなかった。 自分の中に問題意識が残った。NHKに在籍して10年以上が経ち、中堅と呼ばれる年代に入っていた。ある意味NHKの本流でもあるニュース業務をもっとがんばらないといけないのか。既にそれまでのトライアンドエラーで、ニュースを読む、という技術に長けていないという自覚はあった。ニュース運行業務を担当すると視聴者センターに苦情が来てしまったり、アナウンス室に呼び出されて特訓を命じられたりしたこともあるほど、あのニュース独特の節回しの文章を読むのが不得意だった。 私の世の中への興味の持ち方が、社会を空から俯瞰したような、ニュース的な”大きな視点”ではなかったことも大きい。自分の心が最も動く社会の見つめ方は、人間というものの内面をじっくりと探って、普遍的な共感を見つけることだった。 その後、いくつかのタイミングが重なった。例えば、立ち上げからチームに参加し、強いコミットメントを感じていた番組の担当が、立て続けに終わった。4年半担当した『プロフェッショナル 仕事の流儀』はキャスターのいない番組に変わり、7年続いた『アートエンターテインメント 迷宮美術館』は番組が終了した。 両方とも、まさに自分の興味と合致した番組であった上、立ち上げから関わっているため、まるで子どものように可愛い、愛しい存在だった。心にポッカリと穴が空いたようで、寂しかった。「ひとつの時代が終わった」と感じた。でも同時に、私がいなくなるとチームに迷惑がかかる(と、おこがましくも、当時は思っていた)仕事は、これでなくなった。