呂布カルマ、映画『マッドマックス』に「映画観がブリンッとひっくり返った」理由
ラッパーとしてはもとより、グラビアディガー、テレビのコメンテーターなど、多岐にわたって異彩を放っている呂布(りょふ)カルマ。『週刊プレイボーイ』の連載コラム「呂布カルマのフリースタイル人生論」では『映画』について語った。 * * * ★今週のひと言「俺が『マッドマックス』シリーズに魅了される理由」 先日、ついに『マッドマックス:フュリオサ』を見た。 子供たちふたりを実家に預けてまで嫁と一緒に映画館に行ってきた。子供たちを数時間預かってくれていた祖父母は、近い将来の新しい孫の誕生を期待したかもしれないが、残念ながらわれわれは本当に映画館に行ったのだ。 俺が「今一番好きな映画は?」と問われたら、S・S・ラージャマウリ監督の『RRR』か『バーフバリ』シリーズ(甲乙つけ難い)を挙げるのだが、それ以前のナンバーワンは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』だった。 ひねくれ者の俺は、昔からド真ん中のハリウッド映画を避けてきた。『アルマゲドン』も『タイタニック』も見ていない。 どちらかというと、ギャスパー・ノエ監督や、クリストファー・ノーラン監督の作品のような見終わった後、どこか後味の悪さが残るようなサスペンス映画やクライム映画など、小難しくて難解な映画を好んで見てきた。 そんな俺がどうして劇場にまで足を運んで見たのかも思い出せないが、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を見て映画観がブリンッとひっくり返った。小難しいことや意味などはそっちのけで、破壊と火薬量にカタルシスを感じてしまったのだ。 同一映画を公開中に3度も劇場で見たのはそれが初めてだった。そこから新たに俺の中に芽生えた映画的快感を上塗りしたのが、インド映画のS・S・ラージャマウリ監督なのだが、とにかくそういった意味で、前作である『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は俺の中で特別な映画となっている。 そしてその続編の『フュリオサ』である。 前作に登場した隻腕の女隊長を主役としたスピンオフというか、前日譚的な映画なのだが、前作で俺を撃ち抜いた要素や、『マッドマックス』シリーズに期待するものはすべて詰まっていた。 つまり、期待を裏切られることは一切なかった。 見ていない人のためにネタバレは避けるが、とはいえネタバレというほどの、バレてしまえば価値がなくなるようなタイプの映画ではない。 ぶっちゃけやってることは『怒りのデス・ロード』とさほど変わらない。 戦って、捕らえられて、奪って、走って爆破して、助けて、戦って、行って戻って、行って戻って、みたいなそれだけの映画だ。 だから何度でも見られるし、どのシーンから見ても問題ない。 見終わった後、考えさせられるような要素もないし、嫁さんとお互いの考察を語り合ったりする要素も特にない。 なのにバカっぽくもなければ、極めてド派手ではあるが同時に男くさい渋さもあり、散らかってるのに落ち着いている不思議な映画だ。 登場人物が皆必要最低限しか口を開かず、ほとんどしゃべらないのもいい。 話は変わるが、去年『SISU/シス 不死身の男』というフィンランド映画のプロモーション用にラップを書いた。『SISU』はマッドマックスに感銘を受けたフィンランドのヤルマリ・へランダー監督がオールフィンランドロケで、フィンランド版マッドマックス的な映画を目指して撮ったものだ。 その触れ込みだったのでマッドマックス愛好家の俺としては多少いぶかしみながらも試写を見て、納得させられた。 それこそ、『マッドマックス』に感じる類いのカタルシスがブンブンに詰まっていて、俺はプロモーション協力を快諾した。『フュリオサ』同様まだ見ていない人はぜひ! 撮影/田中智久