有罪でも圧勝!田中角栄を支えた越山会とは?【鉄の団結】
YouTube「選挙ドットコムちゃんねる」では、毎週選挙や政治に関連する情報を発信中です。 2024年4月7日に公開された動画のテーマは「史上最強の後援会・越山会とは?」 過去最多の22万票を獲得したこともある越山会の強さの秘密や、他の議員や地域住民との交流についてのエピソードを、「生涯田中角栄の秘書」朝賀昭氏が、ユーモアと愛情豊かに語ります。 【このトピックのポイント】 ・有権者の想いが結集した「怒りの」22万票 ・中選挙区制の時代、選挙の戦い方 ・田中角栄氏の造語「総力結集」と「愛」
新潟3区で空前の大量得票・22万票を獲得
1983年(昭和53年)、ロッキード事件の一審で実刑判決を受けた2ヶ月後、いわゆる「ロッキード選挙」で過去最多となる220,761票を獲得し、当選した田中角栄氏。 舞台となった新潟県第3区の有権者数は約55万4千人。控訴中のため、自民党を離党し無所属で戦った田中角栄氏に対し、ほかの当選者はわずか4万票台。当選者4人の得票数を足しても、22万票には遠く及ばなかったといいます。 ふだんはほかの立候補者の応援を優先し、地元選挙区に入ることのなかった朝賀氏たち秘書も、「この時ばかりは私たちも全力で選挙に当たった」と振り返ります。
田中氏が、これほどの得票を獲得できたのはなぜでしょうか。 越山会は新潟県に存在した政治団体。田中角栄の後援会として「鉄の団結」を誇ったといわれるのは、「自民党員は即、ほとんど越山会」だからというだけではありません。 朝賀昭氏「越山会は、政党活動なんかしてない会員もものすごく多いわけですよ。この人たちが田中先生が政治家になった昭和22年から応援をしてきた」 田中角栄氏の生涯のテーマは「克雪」。 屋根より高く雪が積もり、屋根からの雪下ろしならぬ「雪上げ」と言われる豪雪地帯で生まれ育った田中氏。「日本列島改造論」の原点となった雪問題の克服は、冬の間は働き手が都会に出稼ぎに出てしまう、かつて「裏日本」とさえ呼ばれた地域の悲願でした。 田中角栄氏の、初出馬でのスローガンは「熱き血の叫び」。 政治家になりたいから出馬するのでなく、政治家になって、政治の力で恵まれない郷里を始めとする積雪地帯に光を当てたい。越山会の人々も、田中角栄氏が地域のために頑張る姿を評価したと朝賀氏は語ります。 田中角栄氏が倒れてから亡くなるまでの年数を入れると30年以上。「怒った田中先生は見たことがない。僕が怒られたのが2回だけ。公に、表に向かって怒ったのは2回だった。そのうちの1回がロッキード事件の判決」だったと朝賀氏は語ります。 朝賀氏「田中先生も判決の日、悠々と裁判所に出かけていった。みんなに迷惑をかけたけど、今日で、晴れて無罪で、また昔と変わらないようにみんなのために頑張れる。そういう思いで出て行った」 その怒りが、郷里の皆さんが同じ思いで判決を迎えたのだろう、と朝賀氏はつぶやきます。その中での一審判決と選挙。「お世話になった田中先生に、今回だけは恩返しをしたい」とばかりに、地元が熱狂しました。 MC松田馨「最盛期の越山会は、9万5千人というとんでもない会員数だったと思いますが、地域のかたの『怒りの一票』の想いがあったんですね」 当時の新潟県第3区は、長岡市、三条市を始めとする7市を含めた33市町村。田中氏をこぞって批判していたマスコミの票読みと実際の獲得票の差が、報道の「大勝」か「惨敗」かを分けます。 朝賀氏「批判されればされるほど、うちの、新潟県第3区の有権者は燃えたんだよ。“恩返しと敵討ち”みたいなね。この一票と。角さんには世話になったんだよ、ここで恩返ししないわけにはいかないっていってね。それがこの票になったんだよ」 有権者の「怒り」に支えられた田中陣営。落選することはないといえ、強く批判するマスコミに対しては緊張します。朝賀氏たちの票読みでは、「行っても16万~18万票くらい」だったそうです。ところが、 朝賀氏「僕らも想定外の、想定を上回る得票だったんだけど、おやじさんだけがひとり、ほくそ笑んでいたんだ」 総力を結集した戸別訪問での働きかけはもちろんのことですが、本来なら越山会と対立するような団体の人でも、「自分は入れられないけれど、うちのばあさんの1票は田中さんに入れるから」と呼応する動きと、地域のひとつひとつの反応を読み切って20万票は行くだろうと予想した田中氏。 朝賀氏「陰に陽に、大なり小なり縁のある人が多かったってことだよね」