【オードリー・ヘプバーンの生涯】長男・ショーンが語った「内なる強さ」と「求めていたもの」
「私は1960年に、スイスのルツェルンで生まれました。1964年にラ・ペジブルに引っ越し、1969年まで暮らしました。ですから、私は田舎育ちです。果樹が立ち並ぶ、広く美しい農場で幼少期を過ごしました。 母が映画に出演することはほとんどなくなっていましたから、私はごく普通の家庭で育ったと思っています。一緒に市場に行き、買い物もしていました。 母と父の離婚はつらいことでしたが、両親の関係に問題があることは気づいていました(子どもは、そうしたことを感じ取るものです)……母は離婚のことを説明した後、映画『ジャングル・ブック』を見に連れて行ってくれました。ですから、私にとっては(離婚も)良い結末でした」 写真:映画のイベントに参加するオードリーとショーン、1981年撮影
「母がアンドレア(・ドッティ)と再婚した後、最初はローマの中心部にあるとても広いアパートメントに住んでいました。昔は(教皇の最高顧問である)枢機卿が所有していた建物で、高い天井にフレスコ画が描かれていました。母がアンドレアとの別れを決めた後は、パリオリ地区にある庭つきの小さな家に引っ越しました。 アンドレアが身代金目的で誘拐されそうになったことをきっかけに、私はスイスの寄宿学校(ル・ロゼ学院)に入ることになりました。母は、私の身の安全のためにはそのほうがいいと考えたのです。 母は私に、『ここで一緒に、ボディガードつきで暮らすこともできる。でもスイスに行けば、普通の暮らしができる』と言いました。私が13歳のときでした」 写真:オードリーとショーン、1979年撮影
「母は、家ではフランス語かイタリア語で話していましたが、オランダ語とドイツ語、英語も堪能でした。出演作についてはあまり話しませんでした。実際のところ、母はそれほどの映画ファンではなかったのです。出演した作品の衣装を集めていたと思われていたようですが、そうしたこともありませんでした。 母が本当になりたかったのは、バレエダンサーです。ですが、背が高くなりすぎて、一流のダンサーにはなれないと言われたそうです。栄養失調だったことも、悪影響を与えました。 一番幸せだったのは、スイスで暮らしていたときだと思います。ですが、祖母が同居を始めてから亡くなるまでの10年間は大変そうでした。どう言えばいいでしょうね? 相性の良い母娘ではなかったのです。1900年生まれの祖母は前世紀のグランド・デイム(貴婦人)、男爵位を持つ女性でした。曾祖父は、(オランダ領だった南米の)スリナムの総督でした。 そうした私たちの暮らしのなかに、常に存在していたのがユベール(・ド・ジバンシィ)でした。母とは結婚しても良さそうな関係でした。お互いに愛し、敬服し合っていました」 写真:オードリーとユベール、1991年撮影