自尊心が強く、求心力がなかった猛将【柴田勝家】はどうしても豊臣秀吉に勝てなかった⁉
■筆頭家老のプライドが邪魔をしたか? 「鬼柴田」と呼ばれた猛将・柴田勝家(しばたかついえ)は、織田信秀の代から仕えたが、織田家の後継問題(信長と弟・信勝の争い)で信長に敵対した過去もあった。その後、六角承禎討伐戦や浅井・朝倉攻め、越前の一向一揆掃討戦などに武功を挙げ、信長の信頼を得た。武将個人としての力量も、軍団指揮官としての能力も高かった。 天正3年(1575)、越前一国を与えられた勝家は「北陸方面司令官」として、佐々成政・前田利家・不破光治らの有力武将を与力に従えて加賀・能登・越中へ侵攻し、謙信亡き後の上杉勢を圧迫し始めた矢先の天正10年6月、本能寺の変が起きた。上杉景勝と対陣していた勝家は、信長の弔い合戦(明智討ち)に間に合わず、山崎合戦での勝利という最大の功績を羽柴秀吉に奪われてしまった(第1の失敗)。それでも勝家は長浜周辺を制圧して、勝家らしい誇りを見せた。 だがこの年の10月、今後の織田政権について協議する「清洲会議(家臣団からは丹羽長秀・池田恒興・秀吉・勝家が出席)」に、織田家筆頭として参加したがリーダーシップを取れずに終わった。会議をリードする秀吉に対して勝家は「格下意識」をもって臨んだ。織田家後継者として、勝家は信長の3男・信孝を推したが、秀吉は筋目論から信長嫡孫(信忠嫡男)の三法師(後の秀信)を主張した。秀吉の功績を認める丹羽・池田は三法師支持に廻った。 筆頭家老であることに自信を持ち、秀吉を格下と侮どったことや丹羽などへの根回しをしなかった(第2の)失敗が、秀吉の後塵を拝する結果につながった。さらに、勝家の高慢な性格も反感を買った。国割りも含め不満な結果となった清洲会議であった。この後、勝家・秀吉ふたりは一気に決着戦に突っ走る。 天正11年3月、雪解けを待って出陣した柴田軍2万8000は、秀吉軍2万5000と睨み合いになった。先鋒の勝家の甥・佐さ くま久間盛もり政まさは余呉湖畔の大岩城を落とした勢いに乗って、秀吉が岐阜城攻撃に向かっている最中の賤ヶ岳制圧を企図した。だが秀吉は「岐阜からの大返し」を成功させた。驚いて撤退に入った柴田軍に襲いかかる秀吉軍。いわゆる「賤ヶ岳の七本槍」の合戦である。 この時、盛政勢の背後に布陣していた前田利家・金森長近が秀吉との密約によって撤退したことから柴田軍は総崩れとなった。その後、勝家は北ノ庄城に戻り籠城し、結局自刃して果てた。(清洲会議を含め)勝家の失敗は、情報に疎うとく、自尊心ゆえに同僚や与力などの心をつかむ努力に欠けていたことであった。 監修・文/江宮隆之 歴史人2021年09月号「しくぎりの日本史」より
歴史人編集部