「論破」は寂しい景色 哲学者・永井玲衣さんと町田樹さんの〝対話〟 「私」は対話で作られ、曖昧になる
「対話」と言うと「論破」といった言葉が出てきてしまう現代に、非常に大事な問いかけがなされている 。元フィギュアスケート選手でスポーツ科学研究者の町田樹さんは、哲学者の永井玲衣さんの著書をそう評価します。「対話」はクリエーティブな営みととらえる永井さんと、町田さんが、とある授賞式の場で、 語り合いました。 【画像】対談する町田樹さんと永井玲衣さん
研究者としての言葉は「表現」?
【新しい言葉の担い手に贈られる「わたくし、つまりNobody賞」に2月、哲学者の永井玲衣さんが選ばれました。賞は、日本語による「哲学エッセイ」を確立した文筆家・池田晶子さんの意思と業績を記念し、新しい言葉の担い手に向けたもの。 3月に開かれた授賞式では、永井さんと、昨年の受賞者・元フィギュアスケート選手でスポーツ科学者(國學院大學准教授)の町田樹さんが対談。「表現」や「対話」について語り合いました。その内容を2回に分けてお伝えします。(前編)】 ◇ 永井さん:町田さんは研究者の道を進まれたということで、表現についてお聞きしてみたいと思いました。研究者としての言葉というのも町田さんの表現の一つなのか、どういう表現としてご自身の中でとらえているのか、はじめに聞きたいと思いました。 町田さん:研究者としての言葉が自分自身の表現かどうか。それは、私自身の表現であり、私自身の表現ではない、と答えるのが正しいのではないか、と思います。私はアカデミアの世界で言葉を紡いでいるので、研究者として問いを立て、学術的アプローチで迫り、分析や考察を言葉にして論じていく。基本的には問いが立てられたら、その問いに対しては理論や学術的な作法に則(のっと)ってアプローチしていく。 つまり問いを立てるのは私自身なのですが、その問いを解決していくのは私だけでなく、学術的理論なのです。考える主体は確かに私ですが、その考えは論理や理論によって、どんどん次の見解が導かれていく 。でもその見解をどのような言葉でつづるのか、ということは一人の書き手として熟考しながら書いています。ですから、私の表現であると同時に、私の表現ではないという答えが最もふさわしいかと思います。 永井さん:なるほど。論理が導いてくれるというのはすごく面白いです。私の文章は、いわゆる「論理的な文章」ではなかったり、あるいは対話の場で表現される言葉は、とてもやわらかくて、時に飛び越えるような言葉という風に聞こえたりする。 けれども、そこには確かにその人の論理や合理性というものが流れているんです。そこをばかにせずに、丁寧に引き取っていくのが対話だと思っていて。私たち、対話の実践者たちは、対話が導く方向についていく、という表現をするんですけれども、それは勝手にこっちの方が面白そうと誰かを引っ張ってしまうんじゃなくて、むしろ場が、生き物として転がっていく方向についていくようなイメージ。 なので、今の話はすごく通じるなと思いました。