ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版(1) 外山 脩
一章 パイオニアたち
鈴木南樹、本名貞次郎という老人が、昔……といっても、もう大昔の一九六〇年代のことになるが……サンパウロ市内の何処かに住んでいて、時たま、当時は日本人街と呼ばれていたガルボン・ブエノ界隈を一人で歩いていた。 すれ違う人々の目には、ただの薄汚い爺さんとしか映らなかったであろうが、この国の日本人の歴史に興味ある向きには、貴重な骨董品に似た存在であった。 その頃、筆者は二、三度この老人と接触したことがある。 といっても、筆者は日本から来て未だ間もない二十代前半の若造に過ぎず、南樹についても、どこかで手にした黴臭い書物の中で目にしたその名を、なんとなく記憶していた程度であった。しかも、その黴臭さのせいだったのだろうが、遠く過ぎ去った時代に生きた人……と思い込んでいた。 ところが、ある日、ガルボン・ブエノの近くを、おんぼろのタクシーで通りかかった時のことである。同乗していた職場の先輩が、フイに歩道の方へ顎をしゃくりながら、口を開いた。 「アノ爺さんは、スズキ・ナンジュといって……」 (今も生きている人だったのか!)と内心ビックリしながら、視線をそちらへやると、老齢の日本人がヒョロリと立っていた。車道を渡ろうとして、車の流れの切れ目を待っている様子であった。色のくすんだ買物袋のようなものを手にさげ、よれよれの背広を着ていた。 先輩は、言葉を続けた。 「日系社会では古い方で功績もある。ほかの(古くて功績のある)人は皆、勲章を貰っているが、あの爺さんは貰っていない。それが、爺さん、面白くない……」 勲章とは、日本政府からの叙勲のことであった。 偶然ではあったが、その数日後、筆者は日本総領事館で再びこの老人を見かけた。丁度、総領事の執務室へ入って行くところだった。 因みに筆者は、この時期、サンパウロ新聞の新米記者として、ここを担当していた。館がブリガデイロ・ルイス・アントニオ大通りの入口、東側のビルの最上階に在った時代である。 その時の南樹の後ろ姿に(何かあるナ…)と勘が働いたので、出てくるのを待ち、取材を申し込むと、気軽に応じてくれた。二人で一緒にエレベーターで下に降り、街路をゆっくり歩きながら、話を聞いた。 しかし、その話の趣旨を掴むのには難儀した。歯の一本もない口から発する聞き取りにくい声で、吠えるように早口で喋り続けるのである。 それでも、じっと耳を傾けながら歩いている内に、総領事訪問の用件が「勲章」に関することで、先方が「くれる」というのを断ってきた━━という主旨は判った。 それをその日、新聞社に戻って記事にしたのだが、どんな内容にしたのか、細かい処は、歳月が経ち過ぎているため、覚えていない。そこで先日、文協の移民史料館でサンパウロ新聞の保存版を捲ってみた。一九六八年四月十一日の紙面に、その記事が載っていた。 以下は、それから拾った南樹の談話である。文中の「中林」は、彼が親しくしていた日伯毎日新聞の社長のことである。 「中林を通じて総領事から、ワシが勲章を受けるかどうか……打診があった。中林の話だと、総領事が『鈴木さんは、これまで叙勲から漏れているが、どうしてか?』と、訊いたそうだ。 中林はワシに『勲五等をくれるそうだが、どうするか?』と。断ると『それでは直接、総領事に会って、そう伝えろ』と言うので、今会って、そうして来た。総領事は『勲四等なら、どうか?』と。それも断った。 前にも、そんな話が一度あったが、断った。ワシは、もともと勲章には何の関心もないし、第一、階級をつけるのが好きではない。それに、これまでの叙勲のやり方はデタラメだ。例えば移民を食い物にした移民屋に『移民事業に功労があった』と勲章をやっている。が、連中は職業として、それをしたのであり、その理屈で行けば、米屋や魚屋にも、勲章をやらねばならないことになる」(つづく)