「『君が代』を歌うのにふさわしくない」と非難された坂本九…歴代最高視聴率81.4%の第14回紅白歌合戦で人気者・九ちゃんが笑顔を封印して歌ったワケ
『上を向いて歩こう』『見上げてごらん夜の星を』など数々のヒット曲を送り出した坂本九。若くして頂点を極めてしまった彼に待ち受けていた、1963年ボクシング世界タイトルマッチの歌唱後の非難…そしてその年の紅白歌合戦でのことをお届けする。 【画像】「日本男児らしくない」と言われた、坂本九が撮った歌唱姿勢とは…
1960年代、若者たちの間には「青春歌謡」というジャンルが台頭していた
ツイスト・ブームを頂点にカヴァー・ポップスが人気のピークを迎えた1961年から1963年。 東京オリンピックを間近に控えた日本では、意外にも社会の趨勢とは逆に、復古調で時代がかった流行歌が人気を集めていた。 流しの演歌師として東京の浅草で苦労を重ねた、こまどり姉妹。61年の夏、三味線を手にして着物姿でデビューし、『ソーラン渡り鳥』が最初のヒットとなってスターの座についた。 その年の暮れから62年にかけては、浪曲師から転向した村田英雄が歌う『王将』が大ヒット。レコード産業が始まって以来最高の、100万枚を超える売上げを記録する。 そこに扇を片手に男装の袴姿というファッションで畠山みどりが登場して、『恋は神代の昔から』のヒットを出すと、続いて浪花節調の根性路線による『出世街道』で人気が沸騰したのだった。 急速に衰退していくカヴァー・ポップスに代わって、若者たちの間には「青春歌謡」というジャンルが台頭してくる。 そして若さと夢を礼賛する歌詞と日本的なメロディーが、都会的すぎるポップスについていけなかった若者たちに強く支持された。 その流れを決定づけたのが日活青春映画のスターだった吉永小百合と、股旅歌謡でデビューした橋幸夫がデュエットした『いつでも夢を』だ。これが1962年の第4回レコード大賞を受賞したのである。 ベテラン作詞家と作曲家が書いた若者向けの歌のヒットから、青春歌謡のブームが巻き起こっていくことになった。そこに登場して人気者になったのが、学生服姿で『高校三年生』を歌う舟木一夫だ。 日本の音楽史研究の先駆者だった故・黒沢進は、そうした1963年の音楽状況についてこう述べている。 「上を向いて歩こう」が「スキヤキ」という英題で全米1位となり、我国の音楽もいよいよ欧米の水準に近づいたかのように見えた1963年だが、「スキヤキ」が米チャートを賑わせていた頃、皮肉なことに日本で最も流行っていた歌は舟木一夫のドメスティックな歌謡曲「高校三年生」だった。 舟木に代表される青春歌謡は、音楽的には藤山一郎や東海林太郎の時代への回帰とも思えるような、洋楽との接点が見出しにくいものだったが、日本の若者たちの生活を反映した詞もウケて、カヴァー・ポップスよりもはるかに売れることになるのである。 そして、日本でのポップス人気は急速に衰え、テレビのポップス番組の多くは9月期で終了。ジャズ喫茶も観客減から軒並み経営難にあえぎ、中には倒産する店も出たりしたのだった。 (黒沢進『黒沢進著作集』シンコー・ミュージック) そんな中でロカビリー出身の坂本九だけは、22歳にして絶頂期を迎えている。
【関連記事】
- 「おっ、ゲット・トゥゲザー!」の一言から始まった「はっぴいえんど」と大瀧詠一の『A LONG VACATION』の原風景
- 【哀悼2023】坂本龍一と谷村新司は何を日本に遺したのか…まったく異なる2人のアーティストに共通するもの
- 中森明菜(57)、業界が今も語り継ぐ異様な“金屏風会見”とあの“事件”の真相。そして彼女は表舞台から姿を消した
- 「もう紅白には何の価値も感じません」旧ジャニーズが出場なしでファン激怒。渋谷で300人に聞いた“本当に見たかったアーティスト”は?【Vaundy・NewJeans・日向坂46も】
- 「最後までノッていけよ!」矢沢永吉の掛け声で始まった熱狂ステージ…キャロル解散コンサート最終日で起こったトラブル