<世論はなぜ呪いの言葉を投げつけるのか>社会が発するべき、次の凶行への連鎖とならないメッセージとは
手のひらを返すように母親を叩き始めた人々
事件をきっかけに激しく盛り上がった「反・死刑廃止」運動に対して、クレアさんが今度は自身のフェイスブックにこう書きこんだのだ。 「たとえ加害者が死刑に伏したとしても、小燈泡はもう戻ってこない。それよりも、一体なにが起こったのか、なにが犯人をそうさせたのかという真実を知りたい。あの子の死を、死刑推進に利用するのはやめてほしい。私は小燈泡ではないし、あなたも小燈泡ではない。誰も小燈泡の気持ちを代弁することは出来ない」 そんな死刑廃止支持とも取れる被害者遺族の訴えを目にして、世間は手のひらを返した。台湾社会で主流・保守と言われる人々、つまり反・死刑廃止の人々が、それまで向けていた同情を言葉の刀に持ち替えて、クレアさんを突き刺し始めたのである。 なぜか? 多くの人々にとって被害者家族、とくに被害者の母親というものは「悲しみで家の中に閉じこもり沈黙する」、もしくは「半狂乱になって犯人の極刑を求める」のが正しい姿とされているからだろう。
「娘を目の前で亡くした母親らしからぬ」態度のクレアさんに対し、世論は呪いの言葉を投げつけた。とある議員は、クレアさんを「被害者家族として調査・研究に値する精神的疾病」と病気扱いした。多くの人にとって、「こうするべき」「こうあるべき」というレッテル貼りが覆されるのは、本物の暴力と同じぐらいに恐ろしいということが改めて表出した。 そうして、犯罪者に極刑を求める世論の高まりは、ひとりの男の望みをかなえる事となる。小燈泡事件から25日後、世論に押されるようにして台北MRT無差別殺傷事件を起こして裁判中だったTの死刑が決まり、判決が言い渡されたわずか18日後に死刑が執行された。Tは生前、検察の取り調べに対してこんな言葉を残している。「小学生のときから自殺したかったけれど、勇気がなくて、ただ人を殺しさえすれば、この苦しい人生を終わらせることができると思った」 死刑は犯罪の抑制につながらない。「ひとりで死ね」という言葉が、空しく宙をおよぐように感じるエピソードである。 この一連の出来事が台湾社会に与えた影響は、はかりしれない。