<21世紀枠チカラわく>野球も勉強も 二兎を追う幸せ大切 彦根東 選抜高校野球 /3
「これは彦根東のための制度じゃないか」。21世紀枠が創設されたとき、彦根東の監督だった今井義尚さん(61)=現守山高教諭=は確信した。藩校の流れをくむ滋賀県内屈指の進学校。1953年春以来、甲子園から遠ざかっていたが「近年の試合成績が良好ながら甲子園の出場機会に恵まれていない」といった推薦例にも当てはまる。ただ、実際には思うようには進まなかった。 今井さんが27歳で小学校から高校の教諭に転身後、栗東を経て母校の彦根東の監督に就任したのが96年。栗東を秋季近畿大会に2度出場させた「日本一のチームをつくる」という情熱で彦根東も鍛え、2001年秋の近畿大会では8強入り。2年目を迎えた21世紀枠の近畿地区候補校に選ばれ期待は膨らんだ。 翌02年。第74回大会の選考委員会当日、校長室には大勢の報道陣が集まっていた。だが、いつまでたっても連絡が来ない。「そのうち携帯の鳴った記者が静かに帰るんです。1人減り、2人減り……。最後は高野連から落選の連絡があり……。すごくショックでした」。それでも生徒が集まっていたためステージで「残念ながらあかんかった。これは次に向けてのステップだ」。やっとのことで声を絞り出したものの、いたたまれなくなり「ランニングだ」と言って、部員と一緒にその場を離れた。 それでも21世紀枠を目指す気持ちにぶれはなかった。「プラスアルファで選んでもらえるのは学校での活動が認められたから。模範になる学校や野球部にしなくては」。第76、79回大会でも県の候補校に選ばれたが、それ以上ではなかった。 今井さんは元々「秋」を狙っていた。夏休みにしっかり練習できる。新チーム結成後なら、力のある私学とも戦えるのではと考えた。そこに21世紀枠が創設されたことで、より秋を重視することに。走塁練習に力を入れたほか、「高いレベルでプレーしている意識を持たせるために」とPL学園(大阪)や星稜(石川)といった全国の強豪と練習試合を重ねた。「とにかくセンバツに出よう。出場すれば、いろんな流れが必ず来る。そして、力をつけて次は夏の甲子園を狙おう」。そう思っていた。 ◇初出場によりでき始めた「流れ」 そして09年、念願がかなった。県で4回目、近畿地区で2回目の推薦校となった第81回大会の21世紀枠で56年ぶりの甲子園出場をつかんだ。初戦で強豪・習志野(千葉)にサヨナラ負けを喫したが「流れ」ができ始めた。「彦根東で野球をしたい」という中学生が増え始めたのだ。学区制がなくなったことも追い風になり、約50キロ離れた大津市周辺からの希望者も。「野球も勉強も」と望む中学生は予想以上にいた。 「野球のためには勉強を捨てるべきだとの風潮もあったが、二兎(にと)を追う幸せも大切なんです」。今井さんは異動で彦根東を離れたが、後を継いだ村中隆之さん(52)=現野洲高教頭=の指揮の下、13年に夏の甲子園に初出場。17年夏、18年春には甲子園での勝利も達成した。村中さんは「地域もバックアップしてくれるようになった。若い子にとって甲子園は大きな財産なんです」と話す。 21世紀枠が学校に与えた影響は大きいと、今井さんは言う。「(学校が注目されることで)野球部以外の生徒まで襟を正し、年代を超えたつながりも生み出した。そして、卒業生にはもう一度誇りを思い出させてくれた」。彦根東建学の精神は「赤鬼魂」。同校が出場すると、戦国武将の「井伊の赤備え」にならい大勢の応援で甲子園のアルプス席はいつも真っ赤に染まっている。【中田博維】 ◇進学校 今の選考基準の一つに「学業と部活動の両立」があるように、21世紀枠が導入された2001年の安積(福島)、02年の松江北(島根)、16年の長田(兵庫)、18年の膳所(滋賀)など進学校が多数選出されている。安積と長田は初出場。長田はセンバツ以降も健闘しており、昨年秋の兵庫県大会で3位に入り70年ぶりに近畿大会に駒を進めた。15年の松山東(愛媛)が82年ぶり、05年の高松(香川)は72年ぶり、09年の大分上野丘は60年ぶりと、半世紀以上のブランクを経てセンバツの舞台に戻ってきた学校もある。