聖徳太子が目指した理想の国家とは? 古代日本の近代化と国際化を夢見た皇子の挑戦
蘇我氏の皇子で蘇我氏期待の星だった聖徳太子一族は、山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)の時に、よりによって蘇我入鹿(そがのいるか)に滅ぼされる。いったい何があったのだろうか? いや、これほどの大事件を起こした蘇我氏には十分な理由があったのに違いない。 ■明日香を離れて斑鳩に遷った理由 蘇我氏に期待された厩戸皇子(うまやどのみこ/聖徳太子 以下太子)は、蘇我馬子(そがのうまこ)がバックアップして成立する推古朝の皇太子として政治を執りました。もちろん馬子に協力して大和の国の近代化と国際化を推し進めたのです。 古代の大王即位は20歳を目途に行われていましたが、49歳で亡くなるまで太子の即位はありません。その理由はこの時代に譲位はなく、推古天皇が長生きだったからです。もしも太子が即位していれば、その後の歴史は大きく変わっていたでしょう。乙巳(いっし)の変も白村江の戦いもなかったかもしれません。そして近代化は大きく前進していただろうと容易に想像ができます。 太子についてはさまざまに推測されています。明日香を離れて斑鳩(いかるが)に遷った理由については、馬子とそりが合わなくなったからだとか、政治に嫌気がしたとか、仏教研究に時間を費やしたかったからなど、いろいろな説があります。ただ、太子の心の中を想像すると、いろいろなことが沸き上がります。 例えば、「十七条憲法」を思い出してください。「二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」とありますが、どこにも「天神地祇(てんじんちぎ)を敬え」とは書かれていません。本来、日嗣(ひつぎ)の皇子の立場にある太子が天神地祇に触れないのは誠に面妖(めんよう)な事でもあります。 それは西暦600年に大失敗をした遣隋使のリベンジを果たすために作られた憲法だからで、大和古来の「倭王は天を兄とし、日を弟とする。」的な内容を一切カットして、最新哲学の仏教国であることを主張したかったからかもしれません。 太子は観音菩薩にたとえられていますが、私は釈迦の代理を務めた人だと思っています。御本人もそれを大願となさっていたかもしれません。父親の用明天皇が仏教を公認されて、叔母にあたる推古天皇が仏教興隆の詔(みことのり)をされて、それを実現したいという願いもあったでしょう。しかし日嗣の皇子である立場との矛盾も感じていたのではなかったでしょうか。 つまり、太子は皇太子の立場で仏教興隆を志し、最新の技術や哲学で国家の近代化を目指したのでしょう。太子は徳治政治を目指して仏教を重要視しましたが、天照大神以来の天つ神も重要だった神仏習合以前のこの時代は、なかなか舵取りの難しさもあったでしょう。そして太子は一家を引き連れて、大和川右岸の斑鳩を拠点としたのです。 その理由もさまざまです。飛鳥を離れて中央政治から離脱したように見えますが、太子は斑鳩に遷(うつ)ってからも精力的に政治活動をしていますから、それは違います。ならば、なぜ斑鳩だったのか? 答えは、斑鳩地域が重要な首都防衛拠点であり、一朝有事の際には出撃拠点でもありました。馬子も信頼できる太子であればこそ、その重要拠点に送り出し、支援を怠らなかったのです。
柏木 宏之