米で大ヒットの映画「オッペンハイマー」 子孫らが語る原爆開発と投下から得るべき教訓とは(1)
■戦後、核不拡散を模索したオッペンハイマー氏
――映画の中で、ロバート・オッペンハイマーが広島に原爆投下がされたのを聞いた後の心の葛藤を表すシーンや、トルーマン大統領(当時)に「私は手が血で汚れているように感じる」と言うシーンなどが描かれています。彼の核兵器に関する考えは、マンハッタン計画の間、あるいは日本への原爆投下後に変わったのでしょうか? そこは映画で十分に表現しきれなかった点だと思います。私の祖父や他の科学者が何を考えていたか。彼らは原爆投下直後まで、原爆がいかに恐ろしい兵器かを認識していませんでした。彼らは、原爆の威力は知っていましたが、このような兵器を開発する力によって、もう以前のようなやり方では戦争は出来ない、というメッセージが世界全体に送られることを願っていました。彼らは、アメリカだけでなく他国も原爆を生産できるのを目の当たりにしました。戦争は恐ろしいことです。第二次世界大戦は、アメリカが原爆を投下したというだけでなく、数千万人が犠牲となり、日本・ロシア・アメリカを含めてあらゆる方面から残忍な方法で殺し合いが行われ、全世界の人々を破滅させることが出来るほど強力な兵器を完成させるに至りました。 それが祖父が目の当たりにしたことです。一方で、祖父はそれを防ぐ方法にも目を向けて、その後も提案し続けました。1945年のトルーマン大統領(当時)との会談だけでなく、その後も祖父とその他の顧問らは、軍拡競争を避け、核兵器によって人類が滅亡する状況にならないようにする科学的な国際協力に関する計画に取り組んでいました。それが祖父の重要な取り組みの1つでした。
――マンハッタン計画は元々、ドイツより先に原爆を開発するのが目的でしたが、アメリカはドイツが原爆を開発出来ないとわかってからも開発を続け、最終的に日本が標的に選ばれ投下されました。戦後、多くの科学者が、当時は実験を止められない雰囲気があったと証言しています。何が原爆開発を続けさせたのでしょうか? 戦争における軍の動きという点でみれば、止めることはできなかったと思います。当然、科学者も日々、技術的な事項(開発など)に集中していました。しかし計画全体を見ると、アメリカ軍は、日々、日本への原爆投下を決断していき、それを止めるチャンスは全くありませんでした。彼らは、日本に日々投下していた爆弾の製造ペースを遅くすることはなかったし、この新型爆弾の製造を止めることもありませんでした。それが日々起きていたことです。 科学者もその一端を担っていましたが、日々敵を打倒するために戦っている戦争で、それを誰かが止められたとは思いません。実際にそれは起きませんでした。今になって振り返れば、アメリカは原爆を投下するべきではなかったと多くの人が言うでしょう。それはある意味、事実です。実際に数十万人が亡くなったわけですから。過去に戻って歴史を修正できるなら、第二次世界大戦も起きるべきではないし、日本は真珠湾を攻撃するべきではなかったとも言えます。非常に難しいことです。しかし時代の流れの中で、原爆の開発は止められなかったと思います。