ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (61) 外山脩
その一人を大石小作といった。歳は壮年期に入っていた。もとは鐘紡の技師長であったが、それを捨てて、世界放浪の旅に出た。欧米を経由、ブラジル入りし、サントスで博奕をうって遊んでいるとき、アマゾンにグァラナーという不老長生に効く植物があると聞き、現地へ足を伸ばした。一九二六年のことである。 大石は、アマゾーナス州東部のマウエスで、グァラナー栽培の適地を見つけ、州知事から州有地のコンセッソンを受ける内約を貰った。 日本に帰り、沢柳猛雄という元海軍佐官と組み、一九二八(昭3)年、アマゾン興業㈱を設立する。これが通称「アマ興」である。同社でマウエスへの入植・出資の希望者を募り、一八〇人を得た。 大石は再度、現地入りし、二万五、〇〇〇㌶のコンセッソンを受けた。一九三〇年、日本から入植者一一九人を呼び寄せ、グァラナー四万五、〇〇〇本の植付けを始めた。 アマ興発足の年、同じマウエスに、もう一人、すでに初老の日本人が現れた。崎山比佐衛といった。 崎山はクリスチャンで、青山学院の神学部を出たあと、長期に渡って海外を巡歴、帰国後、渋沢栄一ら財界人の後援を得て、海外植民学校を設立した。卒業生三〇〇人余とその家族を海外に送っていた。 崎山は、マウエスの河水清澄にして風光明媚な点に惚れ込んだ。二年後、ここに五〇〇㌶の土地を買い、植民学校の卒業生二人を送り込んだ。さらに二年後、自身が家族を連れ、移り住んだ。 彼らも、グァラナーを主作とする営農を試みた。 一九三〇年、前章で紹介した上塚司が同州入りをした。 その二、三年前、上塚司は日本で、ブラジル帰りの粟津金六という神戸高商の同窓生の訪問を受けた。用件は「東京の実業家山西源三郎と二人でアマゾーナス州都マナウスを訪れ、州知事から州有地一〇〇万㌶のコンセッソンを受けたので協力して欲しい」という内容であった。 粟津は、リオの日本大使館の嘱託通訳をしていた。 州知事も、たかが通訳や無名の実業家に一〇〇万㌶を譲渡するとは、気前がいい。が、実は、彼は同州への日本人の入植を強く望んでいた。それと、契約した開発ができなければ、土地は取り上げるのだから、一向に構わないのである。 上塚は粟津の話に興味を持ち、予備調査のため人を現地に送った。その結果、さらに本格的な調査団を送り込むことになった。その費用は外務省に半額補助して貰い、残る半額は財界からの寄付で賄った。 しかる後、総勢二一人の調査団を派遣した。自身も参加したが、本隊とは別行動をとり、現地入りに先立ってサンパウロ州プロミッソンに従兄の上塚周平を訪れている。これについては前章で触れた。 上塚司はアマゾーナス州内の候補地を調査の後、東端のパリンチンスに開拓基地を設けた。翌年、日本にその経営母体として「アマゾニア産業研究所」を設立した。「アマ産」と略称された。 さらに、これ以前に東京に創立しておいた高等拓植学校の卒業生を、一九三一年から毎年、数十人ずつ現地へ送り込んだ。彼らは「高拓生」と呼ばれた。 研究所の土地は大河アマゾンに面して幅二㌔、奥行き五㌔あった。その一部に本部、宿舎、売店、農事部、気象観測所、病院、実業訓練所を建設した。 なお一〇〇万㌶のコンセッソンは、都合により粟津・山西から上塚の名義に切り替えられた。 アマゾンといえば実は笠戸丸以前に、東洋移民会社のパラー州への移民送出計画があり、その後──前章で触れた様に──鈴木南樹が国営の植民地へサンパウロから邦人を送り込もうとしたことがあった。 いずれも、ペトロポリスの日本公使館の干渉で、中止させられた。「アマゾンは日本人には保健上、危険地帯である」という理由によるものであった。しかるに右の様な動きが起きている。 しかも、それをパラー州では鐘紡のような一流会社がやり、アマゾーナス州では拓殖事業家たちを財界、外務省が応援している。 公使館の後身のリオ大使館が抵抗した形跡はない。 何故だろうか……という言葉は、これで六回繰り返した。ボツボツ、その六回分の解答を出さねばならない。