ネットで「元祖ブラック企業」論争 富岡製糸場はブラックだったのか?
4月26日、ユネスコの諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)が富岡製糸場と絹産業遺産群*の世界遺産登録を勧告。6月にカタールの首都ドーハで開かれるユネスコ世界遺産委員会で正式に登録される運びだ。国内では富士山に次いで14件目の世界文化遺産、自然遺産を含めると18件目となる。 富岡製糸場は1872年開業の日本初の官営工場。木製の骨組みにレンガ壁と瓦屋根、縦140m×横12m、高さ12mと当時の世界最大規模を誇った場内には300台の繰糸器が並び、数百人の女子工員がいっせいに糸を紡ぐ様子はさぞや壮観だったに違いない。
製糸の指導者育てる、模範的「マザー工場」
戦前の製糸工場といえば、『あゝ野麦峠』や『女工哀史』(こちらは紡績工場が舞台)の連想から「劣悪で過酷な労働環境」と考えがちで、人気ブロガーが「元祖ブラック企業」と評し、インターネット上で話題にもなった。 しかし実のところは、富岡製糸場は明治日本の威信をかけた官営の模範工場で、生産技術だけでなく、労働環境もフランス式に整備されていた。製糸場資料によれば、勤務時間は7時間45分が基本。休日は日曜日と祭日、年末年始と夏季の各10日間を含み年間76日とある。明治期の労働環境としてはかなりの厚遇で、能力別の月給制度や就業規則、産業医制度も整い、寮費や食費は製糸場が負担。余暇を利用した工女余暇学校も設けられていた。 開業当初、工女(富岡製糸場では女工ではなく「工女」と呼ばれた)の多くは、地方の素封家や旧士族の子女だった。政府が各府県に発布した諭告書に「伝習を終えた工女は、出身地へ戻り、器械製糸の指導者とする」と記されているが、これは今日の「マザー工場」にも通じる発想。工女たちは郷里の未来と期待を担う技術研修生(指導者候補)というわけだ。
勤労女性の社会的貢献を後押ししたあり方が評価とも
同時期の工女の姿を伝える貴重な史料、和田英(えい)(松代藩士・横田数馬の次女で工女となった当時17歳)による回想録『富岡日記』には以下のような記述がある。「父が私を呼び……他日この地に製糸場出来の節差支えこれ無きよう覚え候よう、仮初にも業を怠るようのことなすまじく一心にはげみまするよう」 後の『日記』に「業は進みますだけ楽で面白くなりますから、少しも退屈しません」と綴った英は、就労8ヵ月で一等工女に昇進、1年4ヵ月の富岡生活を終えた後、郷里に新設された民営の西条村製糸場(後の六工社)で指導工女を務めるなど地域産業に貢献した。 今回の登録勧告には、英たち勤労女性の社会的貢献を後押しした製糸場のあり方が評価されたと見る向きもある。 ちなみに、英の『日記』には繭を選りわける際の匂いに閉口したこと、他県出身者にライバル意識を燃やしたことや、糸繰りの手ほどきを受けた先輩の横顔など、仕事にまつわる諸事をはじめ、日々の食事やフランス人技術者夫人のファッション、夕涼みや親睦会、花見の模様など息抜きの時間も描写されている。多忙ななかにも働きがいを見出す、充実した日々であったことがうかがわれる。