〈議席倍増で注目〉共産党は、名前を変えるべきか? 大澤真幸
昨年末の衆院選挙の結果は、実につまらない。自分の政治的な期待に反して結果だったのでつまらない、と私は言っているのではない。学問的な関心──政治学や社会学の知を動員して分析したいという欲望──をかき立てない結果だった、という趣旨である。 そうした中で、唯一、「おやっ」と思わせる要素があったとすれば、それは、共産党のかなりの躍進である。この選挙は、よく考えてみると誰が勝ったのかよくわからないところがある。もちろん、与党は、圧倒的多数の議席を獲得したのだから、勝ったことにはなるが、考えてみると議席数を増やしたわけではない。議席を増やしたという点では、野党第一党である民主党がまさにそれにあたるのだが、しかし、前回選挙の歴史的敗北の分を取り返す水準にははるかに遠く及ばなかった。もっと悲惨な負け方だったのは、弱小野党たちで、ほとんど風前の灯のような議席数になってしまった。そんな中で、唯一、確実に勝利したと言えるのは、共産党である。議席数を2.5倍に増やしたのだから。 となれば、この際、どうせ本気になって実現するつもりのない「共産主義」の看板を捨てて、もっと現実味のある政策やイデオロギーを意味する党名を掲げれば、党勢をさらに拡大することができるのではないか。ゆくゆくは、政権を担う、などということもありうるのではないか。そのような意見が出てもおかしくない。 が、結論的に言えば、名前を変えたらダメである。誰にとってダメかと言えば、もちろん、共産党にとって、である。「共産党」という名前がなかったら、この勝利はありえなかった。この名を捨てたら、さらなる勝利は望めない。今日、共産党にとって、最も重要なのは、その党名である。どうしてそうなるのか、その理由を説明しよう。
故若松孝二監督の「実録・連合赤軍」は、タイトルが示すように、ほとんどドキュメンタリー映画のような迫真性がある。この映画の中で、連合赤軍のメンバーが口癖のように言う。「共産主義の地平では…」と。現実の連合赤軍でも、間違いなく、この言葉は、頻用されていたに違いない。 「共産主義の地平では」とは、「共産主義(を目指す)という大義を前提にして考えてみると」というような意味である。映画を見ていると、あまりにも何でもかんでも「共産主義の地平」で考えられているので---本人たちは大まじめなのだが--、何だか吹き出しそうになる。 たとえば、彼らは、「山岳ベース」とかと言う、山梨や群馬の冬山の中に設けられた「基地」に、運動部の合宿みたいなかたちで隠れ住み、来るべき暴力革命に備えて、「軍事訓練」をしていた。が、ある日、何人かのメンバーが、たまにはちゃんとした風呂に入りたいと、町に降りて行って銭湯に行き、少しさっぱりして、基地に戻ってきた。すると、彼らは、他のメンバーたちから、「共産主義の地平」で銭湯に行ったのが正しかったのか、と激しく糾弾された。他のメンバーは、ほんとうは、羨ましくて、ただ嫉妬しているだけなのだが、非難するときには、「共産主義」を持ち出さなくてはならないのだ。 このように、政治イデオロギーの空間には─それが活きているときには─必ず、一つの特権的な記号がある。他のすべての記号、他のすべての要素は、この特権的な記号と関係づけられる限りで、意味をもち、魂を宿すことができる。逆に言えば、その特権的な記号と関係をもてなければ、すべては無意味で、つまらないことになってしまう。 たとえば、連合赤軍のメンバーは、毎日、匍匐前進したりして、寒い中で戦争ごっこのようなことをしている。それは、「共産主義の地平では、ブルジョワ国家権力との闘争を意味する」のである。共産主義の地平がなかったら、「何でこんなことをしているんだろう?」「オレっていったい?」というくだらないものになる。