〈議席倍増で注目〉共産党は、名前を変えるべきか? 大澤真幸
この連合赤軍にとっての「共産主義」のような特権的な記号を「ヘゲモニー的記号」と呼ぶ。ヘゲモニー的記号には、重要な条件がある。今述べたように、それは、他のすべての記号に意味を与える原点のようなものだが、それ自体は、何を意味しているのか、誰もわかっていないのだ。連合赤軍は、つまみ食いの是非を問うときにも、指輪をはめることの善し悪しを問題にするときにも、「共産主義の地平」に言及するのだが、実は、誰一人として、共産主義とは何なのか、よくわかってはいなかったはずだ。 ヘゲモニー的記号のおかげで、すべての記号に意味が与えられるのに、ヘゲモニー的記号自体の意味は定まっていない。が、同時に、それは「何だか豊かな意味をもっている」かのような印象を与えるのだ。そして、誰もが密かにこう思っている。「私は、『共産主義』の意味をよく理解していないのだけれども、誰かがちゃんとわかっているはずだ」と。しかし、その「ちゃんとわかっている」はずの「誰か」はどこにもいない。 このようなヘゲモニー的記号は、政治イデオロギーの空間には必ずある。たとえば、戦後間もない頃の日本人にとっては、「民主主義」がヘゲモニー的記号だった。「共産主義」や「民主主義」ほどには神通力はないが、ほんの少し前の「政権交替」や「仕分け」、現在の「アベノミクス」だって、ヘゲモニー的記号としての側面をもっている。政権交替とは、結局、何から何への変化なのか、わかっていた人は一人もいない。アベノミクスとは何であり、どういう原理でそれによって景気が回復するのか、わかっている人はほとんどいない(多分、安倍首相もわかっていない)。
さて、すると、現在、共産党が、小さいながらも、それなりに勝ったとして、「共産主義」とか「共産党」とかが、ヘゲモニー的記号になっているのか。なってはいない。現在の「共産主義」という記号は、ヘゲモニー的記号の水準には達していないのだ。となれば、そんな名前は捨ててしまってもよいのではないか。ところが、そうはいかない。 まず、連合赤軍の「共産主義」と違って、現在の「共産主義」はヘゲモニー的記号ではない、ということを説明しよう。「共産主義」が何を意味しているかを(ほとんど)誰もわかっていないため、結局は何も意味していない、という点では、両者は共通している。しかし、連合赤軍は、それが実は意味をもたないということ、そしてほんとうは誰もわかっていなということ、それらを自覚していなかった。彼らは、この記号が何かとてつもなくすごいことを意味しているはずで、そのことを誰かは理解している(もしかすると自分も理解しているかも)と思っていたのだ。 しかし、現在は違う。「共産主義」が何を意味しているのか、共産党員も含めてほとんど誰も理解していないだろう、ということをすべての人がわかっている。共産党に一票を投じた人も、「共産党員のほとんどが『資本論』を読んだことがない」ということを知っている。さらに、万が一、「共産主義」なるものに詳しい共産党員だか幹部だかがいたとしても、彼らでさえも、その「共産主義」とかいうものを本気になって実現する気などないことを、(日本人の)誰もが知っている。共産党の支持者は、特にそのことをよく自覚している。要するに、「共産主義」や「共産党」が空虚な記号であることを、皆、よくわかっているのだ。この点が、ヘゲモニー的記号とは違う。 ならば、「共産党」とか「共産主義」とかという記号は要らないのではないか。別のもっとちゃんとした意味のある党名の方がよいはずではないか。そう言いたくなるだろうが、違うのだ。