野球が9回制になったのが「大発見」といえるワケ…スポーツの起源は「遊び」にあった!
考える力をみるみる引き出す実践レッスンとは? 自分で「知」を生み出すにはどうすれば良いのか、いいかえ要約法、箇条書き構成、らしさのショーアップなど情報の達人が明かす知の実用決定版『知の編集術』から、本記事では〈「子どもの遊び」からわれわれが学べること…「子どもの遊び」にはさまざまな工夫が隠れている〉にひきつづき、「スポーツ・ルールの編集術」についてくわしくみていきます。 【写真】「他人のふんどしで相撲をとる」、外国人に伝わるようにするならどう訳す? ※本記事は2000年に上梓された松岡正剛『知の編集術 発想・思考を生み出す技法』から抜粋・編集したものです。
スポーツ・ルールの編集術
子供の遊びにひそむ編集性をかいつまんで案内してきたが、遊びはスポーツの中にも生きている。ということは、スポーツにも編集術のヒントがあるということになる。 そもそもスポーツも遊びから発生していた。古代の遊戯が競技になり、それがスポーツになった。いまでも遊びからスポーツは生まれつづけている。スポーツは「イギリスに生まれてアメリカで育った」といわれるが、最近はやはりアメリカに多い。 トライアスロンがごく最近の例になる。これは1977年にオアフ島の海兵隊が辛い訓練を遊び仕立てにしているうちに、スポーツとして自立した。が、トライアスロンがそうであるように、遊びもいったんスポーツになると少し別のものに自立する。けっこう厳しいものになる。 遊びとスポーツのちがいもある。スポーツは闘争と競争を起源としていること、危険を厭わないこと、勝負にこだわること、勝てば栄誉か賞金賞品が獲得できること、そしてもうひとつはルールに反則が加わっているということだ。 とくにルールは遊びよりもうんと厳密で、反則を犯せばペナルティが科せられる。そのためフェアプレーという精神をあえて高々と称揚する必要もあった。クーベルタン男爵の近代スポーツ精神はそこから出発した。 が、スポーツのスポーツたるゆえんは、どのようにルールをつくり、どのような反則をつくるかにかかっている。そのルールづくりのところに編集術に通じるものがある。 たとえば野球というゲームは攻撃と守備を交互に分けた。それを代わるがわる9回にわたってくりかえすことにした。これはなかなかの大発見で、実はディベートや裁判のルールに通じるものがある。 検察側と弁護側が交替で論陣をはる裁判のシステムは、そんなことをいうと叱られるかもしれないが、まったく野球と同じなのだ。ただ野球の審判の力が気の毒なほどに裁判長ほど絶対的ではないだけである。裁判では、判定に不服だからといってすぐ殴りあいにもならない(サッカーやラグビーでは審判の力は裁判長に近い)。 ちなみに、この攻撃と守備を分けるというアイディアはテニスや卓球やバドミントンなどの「サービス」と「レシーブ」という方法にも生かされている。また、アメリカンフットボールが20世紀で最も進化のはやいスポーツだといわれるのも、やはり攻撃陣と守備陣を2つに分けた「ツープラトン・システム」を導入したせいだった。アメフトはこれに加えてほとんど無制限なメンバーチェンジをとりいれた。それで爆発的な人気をよんだのだ。 野球のメンバーチェンジもベンチ入りメンバーに関しては無制限である。これにたい してサッカーはメンバーチェンジは3人までになっている。 こういうことからも、いかにアメリカ型のスポーツが「より優秀な奴が前に出ればいいんだ」という文化をもっているかということがわかるであろう。そして、ヨーロッパ型のスポーツが「いったん役割を分担したらできるだけ最後までまっとうしなさい」という文化になっていることも、よくわかるであろう。 アメリカはアメフト型のルールを国際戦略に適用しているともいえる。逆に、そういうアメリカだからアメフトが生まれたともいえる。スポーツも文化を編集しているのである。 スポーツにルールが発生し、めきめきと進化していったのは、古代の遊び型のスポーツには「賭け」があったからだった。初期の競技の大半は貴族や民衆の賭けのためにおこなわれていた。賭けは16世紀のヘンリー8世の時代でもまださかんだった。 しかし、競技者の誰に賭けるかという熱狂があまりに高じてくると、だんだんプレーのやりかたも厳密になってくる。それは争いにもなる。それでルールが発達し、審判(レフェリング)という制度もくっついてきた。つまり評価や判定が加わった。 レスリング・柔道・剣道・体操・シンクロナイズドスイミングに判定者がいなかったら、これらはスポーツとしても競技としても成り立たない。見ているほうもつまらない。 このように、スポーツの起源が遊びにありながらしだいにルールを発生させていったということは、編集の歴史にとっても学ぶべき点である。なぜなら、編集というものは価値判断をしやすいように情報の動向をプロセス・マネージしていくシテスムであるからだ。スポーツではその価値判断が“勝ち判断”につながっている。 ともかくもスポーツでは“大人のルール”とでもいうべきものが厳密である。子供の遊 びにもルールはあるものの、そのルールを破ってもみんなからワイワイ騒がれるだけで、それで制裁をうけるということはない。 ところが大人の社会では、そうはいかない。 制裁が待っている。ペナルティが科せられる。出場停止もある。ここに審判の必要も出てくるし、スコアボードを厳密にする必要も出てくる。 逆に、子供たちが「いじめ」をするのは、スポーツのルールがもっている制裁力をちゃんと教えられていないからであるともいえる。 ---------- 【編集稽古16】サッカーやラグビーにはオフサイドというルールがある。このルールはスポーツ史上きわめて画期的なルールで、 ずる(安易な得点)ができないようになっている。また、それによって守備側の戦略もしだいに精巧になってきた(オフサイド・トラップなど)。では、このようなオフサイドに似たルールは、スポーツ以外の社会や慣習のなかにもあるだろうか。考えてみてほしい。 ---------- オフサイドは団体スポーツのルールのなかでもとびぬけてユニークなルールである。敵方にボールを大きく投げて(蹴って)、それをゴール前の味方の選手が受けてすぐに得点をすることを回避している。 このようなルールに似たものは社会にも見られる。たとえば談合やインサイダー取引の禁止などはオフサイド・ルールに似ている。ヨーロッパが近親結婚を禁止したのもどこかオフサイドに似ていた。 ようするに、ある一線に近づきすぎている現象を禁止することによって、その一線の特定の意義を保とうとすること、それが社会のオフサイド・ルールのである。今後は、このようなルールがしだいにふえてくるようにおもわれる。 * 連載記事〈「他人のふんどしで相撲をとる」、外国人に伝わるようにするならどう訳す? …「編集という方法」に求められる大事なこと〉では、雑誌や書籍の編集だけではない、「編集」についてくわしくみています。
松岡 正剛