辰巳琢郎、関西学生演劇ブームの立役者として活躍した京大時代。“黒歴史”も経験…劇団には「すごいメンバーが集まっていた」
京都大学に進学、「劇団卒塔婆小町」に
「劇団軟派船」の船長として、高校3年の学園祭まで芝居をしていた辰巳さんだが、現役で京都大学文学部に合格。 「『受験は何とかなるやろ』という感じはありました。とにかく1年間勉強すれば大丈夫だって。よく言われる“根拠のない自信”みたいな。3年生の9月に公演もしましたけど、とりあえず高校3年生になったときに『京大に入るから勉強する』って周りに宣言をして、引っ込みがつかなくして…自分を追い込んだんです。 一浪しても別にかまへんなとは思っていましたけど、やっぱり芝居がおもしろくなってきたから芝居をしたいなと。早いうちに京大を選んだのは、父も京大だったから(大島渚監督と同級生)というのと、日本一自由な大学だったから」 ――辰巳さんが大学に入られたとき、「劇団卒塔婆小町」(現・劇団そとばこまち)はできていたのですか? 「できたばかりでした。第2回公演から関わっています。入学する半年前、京大の学園祭は『11月祭』って言うんですけど、そこで旗揚げ公演でつかさんの『熱海殺人事件』をやったと聞いて。 入学前にサークル案内が送られてくるんです。そこに『卒塔婆小町』を発見したんです。『つかさんの芝居をやっている劇団だから入る!』って即決でした(笑)」 ――実際に入ってみていかがでした? 「先輩がいるということが新鮮でしたね。つかさんの『郵便屋さんちょっと』という芝居の練習が始まっていて、それを見ながらスタッフとしての仕事が割りあてられました。制作の手伝いとか、照明のピンスポットの手伝い。先輩たちにいろいろ教えてもらいながら、新入生として、新入団員として健気に動いていました。それはそれでおもしろかったですよ」 ――劇団が分裂したのは? 「2回生のときです。1回生のうちに、あと2本に関わりました。第3回公演が、つかさんの『出発』。第4回が新人公演で、唐十郎さんの『少女都市』をやったんですけど、そのときに初めて『つみつくろう』という芸名をつけたんです」 ――「つみつくろう」という芸名にされたのは? 「“たつみたくろう”の“た”抜きです。“つみくろう”じゃ語呂が悪いので“つ”を加えました。つかこうへいさんとか、唐十郎さんとか、苗字が2文字で名前が4文字みたいな名前がね。何かカッコ良かった時代ですよ(笑)。 結局、2回生の春の5回公演まで先輩方と一緒にやりました。そのときは別役実さんの作品でした。それで、次にどうするかってなったときに、3回生と4回生の先輩たちからオリジナルの作品をやりたいという話が出てきて。 今から考えたら当然なのかもしれないですけど、我々はとにかくつかさんの芝居をやるために卒塔婆小町に入ったんだから、つかさんの作品をもっとやりたいと主張したわけですよ。オリジナルには興味がなかった。 企画書なのか、あるいは簡単な台本があったのかな。でも、つまらへんからやりたくないですみたいな感じですよね。元々はたわいもない路線対立なんですけど、それがだんだんこじれてきたというか、なかなか両方とも引っ込みがつかなくなって。 1回生と2回生がちゃんと協力してやらないと、ちゃんと公演できないみたいな感じになっていたので、上級生たちは嫌気がさしてやめてしまったという感じですね。今から考えると本当に申し訳なかったことをしてしまいました。こういうのを黒歴史って言うんですかねえ?」 ――それで座長に? 「いや、2代目は決裂したときの3回生で、阪急電鉄に就職した古澤真さん。後に宝塚に移り、『エリザベート』を日本に持ってきたプロデューサーです。 3代目座長は同級生。僕は4代目座長なんです。他にも先輩方は、朝日放送や電通で活躍した方とか…すごいメンバーが集まっていましたね。あと、やっぱりおもしろい人間が集まる場所だったんでしょうね」 「劇団卒塔婆小町」の座長となった辰巳さんは、学生劇団としては初めてアトリエ(劇場)を構え、毎月公演を行うなど、80年代前半の関西学生演劇ブームの立役者として活躍。1984年、大学卒業と同時に連続テレビ小説『ロマンス』に出演することに。 次回は、「劇団卒塔婆小町」の座長としての試み、『ロマンス』出演なども紹介。(津島令子) ヘアメイク:釣谷ゆうき