満蒙開拓の悲劇「語り継いで」と両陛下 長野の記念館を訪問
天皇、皇后両陛下は17日、長野県下伊那郡阿智村の「満蒙(まんもう)開拓平和記念館」を訪れ、国策のもと多くの犠牲者を出した旧満州(現中国東北部)の元開拓団員らと懇談されました。終戦直前のソ連(当時)の満州侵攻と開拓団員らの逃避行は、機銃掃射による虐殺や集団自殺など凄惨(せいさん)を極めたとされますが、その事実は広くは知られていません。同館は「これを機にさらに多くの人々にこの歴史を知ってもらいたい」としています。
ソ連軍の機銃掃射や集団自決で多くの犠牲
同館によると、満蒙開拓とは「満州国」に送り込まれた日本の農業移民。内モンゴルの一部が含まれていたため「満蒙」地域と呼びました。1931(昭和6)年の満州事変以後に関東軍(満州に駐留した日本陸軍)が旧満州を制圧して満州国を建国。1936(昭和11)年に「満州農業移民100万戸移住計画」が国策となり、終戦まで全国から27万人が中国に渡りました。 貧しい農村が村を挙げて送り出す「分村(ぶんそん)」や複数の村が送り出す「分郷(ぶんごう)」の開拓団が多かったとされます。 しかし、終戦直前の1945(昭和20)年8月9日、ソ連軍が戦車、航空機も動員して満州に侵攻。当時、関東軍の主力は南方に移動、開拓団の男性も軍に「根こそぎ動員」されていたため開拓団に残された女性、子ども、高齢者たちの逃避行が始まりました。 ソ連軍に加え、日本の開拓の名のもとに土地を奪われた満州の住民らも長い間の恨みから開拓民を襲撃。各地で追いつめられた開拓民がソ連軍の機銃掃射で犠牲になった「葛根廟(かっこんびょう)事件」や、集団自決した「麻山(まさん)事件」などが相次ぎました。寒さや病気で亡くなる人も多く、開拓団のうち約8万人が犠牲になったとされます。
長野からは1万6000人超が未帰還
長野県では下伊那・飯田地域の8389人を最多として全県で3万2992人を満蒙開拓に送出。未帰還者は1万6043人に上り、このうち1万4940人が死亡しました。 長野県下高井郡が送り出した「万金山高社郷(まんきんざんこうしゃごう)開拓団」の場合は、1940(昭和15)年に入植した716人のうち日本に帰還できたのはわずか128人。未帰還の588人のうち副団長以下約500人は逃避行の末、集団自決しました。 下伊那郡上久堅村(現飯田市)の「新立屯上久堅村(しんりっとんかみひさかたむら)開拓団も入植者836人のうち帰還できたのは250人。586人が現地で亡くなりました。 当時の政府は開拓団のほかに16歳から19歳の男子を対象に「満蒙開拓青少年義勇軍」も募集。関東軍の予備軍として機能させたり、太平洋戦争開始後は応募が滞った開拓民を補充する狙いもありました。長野県は全国で最も多い5904人の青少年義勇軍を送り出し、割り当てで教師が強引に勧誘した例も少なくなかったとされます。