「日本資本主義」を作った男・渋沢栄一、実業界引退後に築いたもうひとつの豊穣な人生
■ 次々と会社設立、しかし「財閥」は作らず ここで、薩摩藩や長州藩出身の大物たちとの人脈を得る。これが後に政府の許認可を取り付け、大規模会社を立て続けに設立する際に大きく役立つことになるのだが、政争に巻き込まれ、下野する。その理由も渋沢らしい。 渋沢は収入と支出管理のため、省ごとに経費に枠を設けようとしたが、これを政府のトップであった大久保利通が認めなかった。軍拡路線をひた走り、軍備予算増額を主張する大久保と真っ正面から衝突し、渋沢は辞表を提出する。 下野後、渋沢は政府の役人として民間に設立を働きかけていた第一国立銀行を1873年に設立する。これは日本初の銀行で、現在のみずほ銀行だ。 その後、銀行の機能をいかし、あらゆる業種の起業に携わる。東京証券取引所、日本赤十字社、東京ガス、帝国ホテル、王子製紙、東急電鉄、キリンビール、東洋紡など日本の近代化の礎となった数々の大企業を設立し、その数は500近い。鉄道やガスなど近代経済のインフラといえる業種が大半で、渋沢が立ち上げた企業があるから、今でも多くの人が日常生活を営めているのだ。 そう言われてもあまり恩恵を感じられない人も多いだろうが、それこそが渋沢の凄さだ。 儲けを自らの懐に収めて、さらなる儲けを企図しなかったからだ。日本資本主義の父と呼ばれながらも資本主義の仕組みを使って自らの富をひたすら追求しなかった。それは三井や三菱と違って「渋沢財閥」が今の世にないことからもわかるだろう。常に後進に道を譲ることを念頭に会社を経営し、その仕組みづくりを常に意識していた。自らの「引退」を前提に組織を築いた。
そのため、継続的に関与した一部の会社を除いて、ほとんどの場合持ち株を数%に抑えて「渋沢色」を薄めた。自分が立ち上げた会社でも、上位株主に名前がない会社も多かった。会長または取締役として在籍している会社であっても、その会社を支配しようとはしなかった。経営に対する発言権を確保するのに不自由しない程度の株式を所有するにとどめていた。 自らつくった会社にこだわらずに、必要ならば株を売って他の会社を立ち上げることも繰り返した。いかに会社の所有に執着がなく、事業を円滑に引き継げる体制を敷いていたかがわかる。 ■ 76歳にて「後顧の憂いなく実業界を隠退」 69歳の時に第一銀行以外の約60の会社役員の職を辞し、76歳の時には第一銀行の頭取も退き実業界から完全引退した。当時としては高齢まで会社の要職にあったとの見方もあるだろうが、渋沢にしてみれば私利私欲ではなく道筋をつけるまで留まっていただけだった。 引退について渋沢は「ことごとくとは言わぬが、大体において道理正しい進歩を遂げたので、私はこの時機において後顧の憂いなく実業界を隠退するに至ったのである」と振り返っている。