「日本資本主義」を作った男・渋沢栄一、実業界引退後に築いたもうひとつの豊穣な人生
■ 逃亡生活から一転、一橋慶喜に仕官 1840年、現在の埼玉県深谷市に生まれる。生家は農業のほか、藍染め原料の加工・販売を営んでいた。それらの染め物材料を江戸ではなく織物産地に直接卸すことで、村内で存在感を高めた。販路を自ら発掘して、ビジネスチャンスを拡大したところに、渋沢の古いしきたりや序列を打ち破る気風の原点を見る専門家もいる。 幼少時代から四書五経の手ほどきを受けた。利根川で江戸と直結する地の利を生かし、頻繁に江戸に出て、高い教養や剣術を身につけた。 渋沢は後に幕臣として取り立てられたが、元々は攘夷の志を持っていた。江戸に出て、長州の志士と倒幕を誓うも決行直前に中止し、京に逃亡。活動に行き詰まり、江戸で知己を得ていた一橋慶喜(後の十五代将軍徳川慶喜)の家臣の推挙で、慶喜に仕官する。 これにより、武士身分を獲得し、幕府の探索から逃れることに成功するのだから、かなり運のよい人生でもある。 後の「日本資本主義の父」にとって大きな経験となったのが慶喜の異母弟である昭武のパリ万国博への派遣随行だ。1867年から庶務・会計係として約2年間パリに滞在した。 この頃、ヨーロッパに渡った者は政治体制の違いに大きな影響を受け、「日本は遅れてる!」と危機意識は持ったが、渋沢はもっぱら銀行・鉄鋼業など近代産業の実務に関心を示した。ちょっと地味であるが、家業で商売に親しんでいたことに加え、幕末のゴタゴタで政治と距離を置きたかったともいわれている。
■ パリ滞在中に「資産運用」実践 滞在中、渋沢の生死に関わる大事件が起きる。派遣された年の秋に大政奉還で慶喜が政権を天皇に返上してしまう。そして、王政復古の大号令が出て、幕府そのものが消滅する。 一同が異国の地で狼狽したのは想像に難くない。今と違ってインターネットもない時代だから、あれこれ情報が飛び交い、妄想も膨らませたはずだ。現実的な問題として送金も絶えてしまい、頭をかかえた渋沢を救ったのが、現地パリの銀行の頭取だった。「運用すれば?」と助言され、渋沢はここで投資や配当の概念を知る。 渋沢は残りの金を運用することで、帰国の費用を得る。「すばらしきかな資本主義」と感涙したかどうかは知らないが、当時、渋沢はカネの使い方をすべて記帳しており、公債や鉄道債券を購入、利潤を得たりしていたことがわかっている。 「資本主義の父」がパリで窮地に陥り、学んだくらいなので、当時、このような発想をする人は皆無だった。渋沢が日本に帰ったら、こうした金融システムをつくりたいと考えるのは自然のことだった。 逆臣だった渋沢だが、いつの時代も異才は放っておかれない。1868年末に帰国すると、旧幕臣にもかかわらず、「西欧の経済に明るい」と新政府の目にとまり、現在の財務省の役人になる。